つり革のリスク
男とつり革
朝の通勤電車。その男に気づいたのは、私がドアの近くに立っていたときだった。すぐ目の前にいる中年の男性が、ぎゅっとつり革を握り締めていた。
その姿は何の変哲もない光景の一部だったが、私はふと、あることを思い出してしまった。
洗面所事件
数日前、とある駅の改札口近くに設置されているトイレで、利用者とすれ違った。
彼は用を足した後、洗面台を素通りし、何事もなかったように出て行ったのだ。
私は内心、「このご時世に?」と思ったが、言葉にはしなかった。
けれども、その記憶が今日の電車で突然甦り、私の目線は彼の手に集中した。彼が握るつり革。そのつり革は、たった今、彼の手によって新たな「リスク」を纏ったように感じられた。
つり革の存在感
電車のつり革は、日々、無数の手に触れられている。
立場も性格も異なる人々の手だ。
電車のつり革は、私たちの日常生活において当たり前の存在であるが、故にそのリスクについて深く考えることはしないだろう。
通勤や通学の時間、揺れる車内で私たちを支えてくれるこの小さな道具には、多くの利便性が詰まっているが、目に見えないリスクが潜んでおり、その存在を過小評価することはできないだろう。
このリスクについて考えることは、私たちが共有する公共空間とそこにおける行動を見直すきっかけにもなる。
私はつり革を、揺れる車内で人々の安全を提供してくれる便利な道具だと思っていた。
しかし、彼の手が触れた瞬間、つり革が「リスク」の象徴に変わったのだ。
見えないものとの戦い
実際、つり革がどれだけの人に利用され、どのように清掃されているかを私たちは知らない。
鉄道会社が定期的に消毒をしているのかもしれないが、やはり疑問も残る。
完璧に清潔なつり革など存在するのだろうか?
何よりも問題なのは、見えないものに対する私たちの意識だ。
その男は、なぜ手を洗わなかったのだろう?
急いでいたのか、気にしない性格なのか、それとも手洗いが必要ないと思っているのか。
その背景を知ることはできないが、その結果が目の前のつり革に現れていることだけは確かだ。
手を洗うという行為の重み
電車を降りた後、私は真っ先に駅の洗面所に向かい、手を洗った。泡立つ石鹸と冷たい水の感触は、これまで以上に新鮮で清々しいものに感じられた。
手を洗うという行為が、ただの衛生的な儀式ではなく、自分と他者を尊重する一種の礼儀だと改めて気付かされた。
手を洗わずにつり革を利用するという行動は、公共空間における他者への配慮が不足していることを反映しているのだろう。
そして、次に電車に乗るときも、私はつり革を握るだろう。
それが誰かの手によってどんな状態になっているかを想像しながらも、社会の一部としてその接触を受け入れるしかない。
そして同時に、私自身がその「つり革の一部」であることを忘れないようにしたい。
最終的には利用者一人ひとりがリスクを意識し、適切な行動を取ることが必要だろう。
例えば、電車に乗る前後に手を洗う習慣をつける、アルコール消毒液を持ち歩く、あるいはつり革を直接触らずに利用する方法を工夫することなどが考えられる。
また、電車内で咳やくしゃみをする際には、手で覆うのではなく、肘の内側を使うといった基本的なマナーを徹底することも、つり革のリスクを軽減する重要な手段だろう。
つり革の再評価
つり革は、私たちが日々共有する公共空間の縮図である。
その存在は、私たちがいかにして互いに影響を与え合いながら生活しているかを示している。
同時に、それがもたらすリスクについて考えることは、公共空間での行動や衛生意識を見直す良い機会でもあるだろう。
次に電車に乗ったとき、つり革を握る手に少しだけ注意を向けてみるとよいだろう。
その手は、他者との見えない接触を通じて、社会の一員としての責任を担っている。
つり革のリスクを理解しつつ、その価値を再認識することで、私たちはより良い公共空間を作り出せるはずなのだ。