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待機列の夢

 その日、私はアトラクションの前に並ぶ長い列の中にいた。日差しが照りつけ、足元に広がるアスファルトが熱を帯びている。
 
列はゆっくりとしか進まない。隣で話し込む家族連れの楽しそうな声が耳に入るたび、なぜか胸の中に苛立ちが湧いてくる。

ふと、横を通り過ぎる優先レーンの一団が目に入った。彼らは自信に満ちた足取りで、列の外側をすり抜けていく。その背中を見送る私の心の中には、嫉妬と焦燥感が混ざり合った感情が広がる。
 
高額な追加料金を払えば、この列をスキップできる。それが現実だ。
 
この列はこのテーマパークの夢の中に描かれた小さな格差社会だ。私はふと、自分がただの「一人の客」にすぎないことを痛感させられる。
 
数カ月前の別の列での記憶が蘇る。
 
それは音楽ライブの待機列だった。
 
夕暮れの空の下、同じアーティストを愛する人々と並んでいるだけで、不思議な一体感を感じていた。列に並ぶ時間さえ、特別な儀式のようだった。
 
前の人と「どの曲が一番好きか」と語り合い、背後の人とは「グッズのデザインがいいね」と笑い合う。

長蛇の列の中にいるというのに、そこには焦りも苛立ちもなかった。ただ、「自分がここにいる理由」が明確だったからだろうか。その時間さえ、期待という名の喜びで満たされていた。
 
列という存在は避けられない。
 
テーマパークでも、ライブ会場でも、イベントでも、私たちは必ず並ぶ。だが、その待つ時間の感じ方は驚くほど異なる。
 
テーマパークの列では、優先レーンや高額なチケットが格差を突きつける。待つことが「目的への妨げ」として否定的に感じられる。一方、ライブやアニメイベントでは、列に並ぶことそのものが期待を共有する「プロセス」となる。列にいる時間さえ、体験の一部なのだ。
 
マルティン・ハイデガーは、「人間は他者や出来事と関わりながら存在する」と述べた。
 
テーマパークの列では、この「他者との関わり」が希薄だ。時間はただ消費されるものとして感じられる。しかし、ライブやアニメイベントの列では、同じ目的を持つ他者とつながることで、「世界の一部である」という感覚が生まれる。

 その違いが、待機列における感情の質を大きく変える。苛立ちと嫉妬の列か、期待と連帯感の列か。それを決めるのは、列そのものではなく、私たちがそこにどんな意味を見いだすかだ。
 
列の中にいるとき、私はよく空を見上げる。

どこまでも続く青空の下で、何を待つにしても、心に余裕を持ちたいと思う。
 
テーマパークの列で焦燥感に駆られる日もあれば、ライブの列で喜びを感じる日もある。そのどちらも、私たちが「待つ」という行為に込めた意味が違うからなのだろう。
 
青空の下、列にいる間、私は自分に問いかける。「この時間はただの消費に過ぎないのか、それとも何か意味のある体験になるのか?」
 
答えはいつも曖昧だ。
 
しかし、どんな列であっても、期待や共感を見いだせるような心を持ち続けたいと思う。それが、列という風景の中で私が見つけたささやかな答えだ。

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七尾えるも
この度はチップをありがとうございました。