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「夢は叶うは宗教である、と思うとラクになる話」

はい。どうも、昨日↑のようなnoteを書いたんですが、「そういえばそうだな」と思ったことをつらつらと。

それは「夢は叶う」論を宗教だと思うと、ラクになる、ということ。

夢は必ず叶う、というのはもはや誰から聞いたのだかわからないのですが、
とりあえず、いろんなルートからおそらく聞いているかと思います。

叶うとは言わなくても、子供の頃には、「将来の夢は?」と聞かれるかと。

ということで、無意識下には「夢は持つもの」ということが刷り込まれるわけですね。

で、夢は持たせるけれども、叶うかどうかは別です。

そもそも子供の頃に思う夢は、本当に自分の欲しているものなのか? とも思いますが。

で、夢が叶うのか田舎については、いろんな亜種があります。

なぜなら、絶対多数は夢が叶わないので。

おそらく多くのメンズは、サッカー選手やプロ野球選手にはなれないでしょう。

というか、あと数年くらいしたら、LGBTへの配慮とかで、女の子男の子とかで、夢を聞くとか性的同調を招くとかでやんやいわれそうですね。

それはいいとして。

で、夢はだいたい叶わないので、

夢は叶わない!! という反旗から、夢を追いかけることそのものに価値がある、とか、もろもろに、夢そのものが成就すること以外に価値が派生するものとか、あるわけですよね。

いや、少数しか叶わなかったけれども、夢を叶えた人は夢を持っていた。可能性は願わなければゼロだ! という宝くじを買うのはかわないよりも賢い理論を出してきたりします。

ただ、この辺は結局どっちなんやねん、と思うのですが、
結論が出ずに、うやむやになりますよね。

そもそも夢を抱く、ということ。
そのものがなぜ生じるのか、ということなんですが、これはおそらく近現代に発祥した思想だと思うと、なるほどなーと思うのかと。

つまりは、夢を持つ、とか夢の力、というものが一つの思想であり、考え方で、
その宗派の考えに則るかで、答えや捉え方が変わってくるのだと思います。

正義は勝つ、の正義とは、みたいな。

夢という言葉は、ここでは自己実現と言い換えたらいいでしょうか。

そもそものこの、自己実現というのが、現代的な思想ですよね。

前述した通り、19世紀のキリスト教的な異端潮流のニューソートという考え方から、個人主義と経済発展の中で、「自己」というものが肥大化してきた中で、うまれた一つの考え方であって、「正解」ではない。

ニューソートのの考え方としてある「思えば叶う」

夢を持てば、叶う。

よく考えると、道理としては、かなり隔たりがあり、=で結びつかないのもしゃあない。
しかし、それが正しいと思っていると、そもそもの夢(自己実現)を否定することが難しい。

自己実現など、はるか昔、およそ源自然的な状態では求むべきもない。

つまりは人間は、自己実現など思い描くことも、それによりどうにかなるようになど、体も心もできてはいない。

少なくとも体は。

心も原始の世界を生き抜くような仕組みで動きながらも、いびつに現代に生きている。

だから、飢餓を回避するために、飢え死ことがなくても、肥満に陥る。

いくら美味しくても、糖質と脂質がたっぷりと含まれた食事は健康を害する。

いくら甘美とはいえ、身の丈に合わない思考は、心を害する。


少なくとも、自己実現は、近現代。宗教的な「思えば叶う」という特に論拠のないものが発祥なのだ。

金科玉条のごとき、崇高なものではない。

夢は叶う。

けど

叶わないかも知れない。

信じるか、信じないか。なのだから。

ではでは。



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