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「成功! 夢 ! 成長!! 自己啓発は宗教だ!! と考える理由」

ども、Nazyです。さて、適当にだらだらとしゃべります。
自己啓発、という言葉が結構、一般化したような気がします。が、どうなんでしょうか?

しかし、この辺まで自己啓発と思うと、ネット社会になって結構、裾野が広がっているかも知れません。

自己啓発というとある程度、自己研鑽的な意味合いがあったりなかったりしますが、「俺は俺のままで最高だ!」という自己肯定感1000%となるものまで含めるのも、自己啓発っちゃ啓発なんですよね。

(似非)自己啓発系の本って、大別すると

・簡単にできるよ

・そのままでいいよ

の2パターンなんですよね。

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本当に修行とか研鑽が必要だと、「俺、できねぇし、、、」ってなるし。

ちなみに自分がおそらく1番最初に読んだ自己啓発系の本は↑の著者の本だと思います。大学生の頃で、仕事も何もしてないのですが、なんか出来る気にさせてくれる本でした!!!!!

さて、とはいえ、自己啓発が「宗教」だというと、おそらく反発を抱かれるかと思います。

というのも、だいたいが「いや、あやしくない?」という世間の反応と、自己啓発にハマる人はビクビクと関わってきたのですから。
それは1990年代のアニメ好きのオタクが如く。

アニメを見ていることが、反社会的なことだと思われたように。

自己啓発、というものが、どこか微妙にカルト的な意味合いを持たれて、忌避されているような。

自己責任の時代になり、若干は自己啓発への毛嫌い感は薄れましたが、意識高い系や努力への厭世感が、同時に渦巻いており、アニメのように市民権を得るかどうかは微妙なのかな〜とおもったり、思わなかったり、もっとうっすらとしたものとして、ていちゃくしていくのかもしれません。

で、カルト的なものとの同一視に反して、そもそも自己啓発の発祥は、カルトや宗教に起源があるのだからやむなし。

いやいや、自己啓発と宗教って!! と思う人もいるかも知れないし、
自己啓発が促す自助努力と超越的な存在をしんじるような宗教は真逆にようにうつるかも知れない。

しかし、そもそも、「自助」によりどうにかなる、というのが近代の発明だと気づけば、一種の信奉体系であるとわかるのではないだろうか?

努力が報われる、というのは実は合理的な信念とはいえない。

では、なぜ、努力すれば報われると信じられるのか? 

どう考えても不平等が罷り通っている世の中で。


そして、自己啓発の歴史を辿ると、

人間の意識は宇宙と繋がっている、と考えた19世紀のアメリカで興ったキリスト教潮流の一つ。

人は宇宙(神)と繋がっている。だから、内なる神をなんとかすれば、人間は神だからなんでもできる、みたいな。

この考え方としてわかりやすいのは、
「病気の本質は患者が持つ誤った信念であり、信念を正せば病気が治る」という救いがあるようで、全力で無慈悲な考えに現れているかと。

その後、ニューソートはキリスト教的な要素からよりジャンキーなものとなり、
ニューエイジ思想へと変化し、そこからある種、スポイルされ、昨今の自己啓発的な思想や主義へと繋がっていく(スポイルした結果なのか、宗教的な要素をスポイルしたのかはあれだが)

さて、出自を語ったが、とはいえ、自己啓発=宗教とはいささか言い過ぎかも知れない。
文化的なものは、ある意味、おおよそ宗教が関わっているだろうし、それは軍事技術開発から生まれた技術だから危険だという因果を無視した考えともなるだろう。

しかし、技術関連とは別で、やはりそこには一つの信奉・信念体系が、自己啓発にはある。

多くの国では宗教があり、無宗教というのは珍しいらしい。人は何らかの宗教を信じている。日本人は無宗教というが、おそらくは多神論やアニミズムが近しいだろう。海外では完全な無神論をブライト主義ともいうらしい。

で、自己啓発は、人の可能性を信じているのだ。

何者かになれる

自らを磨いて開く

というのも一つの深淵だ。

それ自体は正しい。

しかし、自己啓発が広がる世界では、夢の見方が歪になりかねない。

成功や成長、夢。

おおよそ、自己啓発として語られる多くのことは、果たして、古くの人類が信じていたのだろうか?

大金持ちになって成功する夢は、金のない時代には見なかっただろう。
半径数キロで生涯が終わっていた頃に、自らがなにかに成し遂げる夢はみなかっただろう。

成功を目指すことはなかっただろう.が。いまは無数の成功と夢がスライド一つで、見て取れる。

夢みれるだけで、手を伸ばせば取れるような気がする。
見えるだけに。そして、「ただ手を伸ばせば手に入る」と囁きさえしてくる。

すると、いつしか自己啓発は自らを開くはずが、あら不思議。

自己とは無関係の行動にうつつを抜かすことになる。

ここが自己啓発が「宗教」と見紛う所以ともいえるだろう。

共産主義の理想は気高くとも、共産主義が成功する道理にはならない。

自己啓発は、その甘美な響きと歓喜の映像から多く人を惹きつけ、それを巻き込み、人を本来の目的から逸らしてしまう。

そして、そうなった組織は本来の目的とは別種の動機として動き出す。

自己啓発が正しくとも、自己啓発を誘う者が正しいとは言えない。

甘いものがうまい、が、体にいいとは限らない。


しかし、自己啓発はまったくの無用の長物と言いたいわけではない。
自分もなんだかんだといって、そういった類は好きなのだ。

欲を自らに向けること。

それを楽しむのも一興ではないだろうか。


そして、なんの身にもならない、自己啓発本も、好きなのだ。

宗教はアヘンであるとは、あれだが、栄養ドリンクと思えばいい。
駄菓子と思えばいい。キツケの薬だ。


ただし、飲み過ぎは体に良くはない。

最後まで読んでくれて thank you !です。感想つきでシェアをして頂けたら一番嬉しいです。Nazy