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愛されて生きたひとは折れない【映画「ファーストキス 1ST KISS」感想】

映画「ファーストキス 1ST KISS」がついに公開された。
試写、初日に続き、週末にも鑑賞を重ね、毎度めしょめしょになって帰ってくる。3度目の鑑賞は、初めて人と観るのでドギマギしつつ、最悪集中できないかもしれないが、最後のタイムリープ周辺をしっかり認識したいという思いがあった。

というのも、このあたりのことが前回まででは号泣しすぎて、それぞれの心情をうまく捉えられていなかった気がしていた。具体的な場面で言うと

  • 2009年 「好きじゃない人から好きって言われることが一番いや」

  • 2024年 カンナが恐竜展に行く

  • 2009年(作中ラスト) 駈が目を覚ます場面で始まる

このラストのタイムリープを含む一連の流れである。
これまでのように、わかりやすく車に乗ったり、チェキの音がしたりというリープ演出がないこと+既に泣きすぎてそこまで頭が回っていないことにより、前回まできょとんとしていた。無念。
なお、この作品においてタイムリープによる歪みの整合性などはそこまで重要視されていないようにも感じるので、その件の深追いは一旦置いておこうと思う。
(余談だが、塚原作品の"キー"となる音の演出に「きたぞ…!」とドキドキするのが好き)

まずは場面の振り返り

改めてひとつずつ、感じたことを整理したい。なお、映画鑑賞→シナリオブック確認、の順で執筆したため、一部齟齬があります。ネタバレも含むのでご注意ください。

2009年 「結婚しない」ためのタイムリープ

まず、里津と結婚させるために、駈を手ひどく振るタイムリープについて。

わかったわかった、わかったよ
……だったら答えは簡単。赤い糸を切ればいい
わたしたちは出会わない。結婚しない

『ファーストキス 1ST KISS』pp. 129–130

この回は、赤い糸を切ることが目的だった。(シナリオの段階では壁に付箋を貼る、とあるのでどの段階でこの演出になったのかはわからないが、パツンと切られる赤いテープの描写がうまいなぁと思う。塚原さん大好きです。)

里津と話してこの結論に至ったカンナは、帰宅時の勢いや答えが出て嬉しそうな声色と打って変わって、出る前に「これが最後」とでも言いたげに部屋を見渡した。
駈の痕跡がいたるところにある部屋。ふたりが結婚し、越してきたこの部屋には、15年の思い出があって、きっとそれは冷え切ったものだけではなかったはず。

それでも駈を生かすために部屋を出る。思い返すと、離婚届を書いた日も部屋を見渡す描写があった。あのときも思うところがあったのかな。「今日が最後だね」って、出掛ける彼に言いたかったのかもしれない。

それでも「最後」のタイムリープをして、駈と出会い、里津との未来を力説する。「興味ない」と突き放されて走り去った駈を追いかけるくせに、期待はさせてくない手ひどい返し。

この世で一番嫌なことが何かわかる? 好きじゃない人から好きって言われることだよ

みるみる涙目になって去る駈も切ないが、一度は愛した相手で、また恋をした人。カンナだって苦しかっただろう。
あえて明るく、真剣な駈を笑い飛ばすカンナ。再度突き放すカンナ。それでもどこか罪悪感を抱えた苦しげな表情なのが印象的で、いたたまれない気持ちになる。

白樺の新緑が美しいこの場面、トレーラーで見た際にはこんなにも苦しい場面だとは思わなかった。シナリオブックを読んでみると、「内心強く引かれ」「つらく、声をかけたくなるが」「必死に耐えて」というト書きが何度も登場し、胸が痛んだ。「あと1回」だったはずが、この後またやりなおすことからも、カンナにとっても後味が悪かったことが窺える。

書いていて気付いたけど、カンナが2024年に戻れてしまったってことは、あんな別れの後でも駈とカンナは交際に至り、駈の死は免れなかったということ?
前回までのミルフィーユで、カンナ(45)はたびたび間違えちゃってたけどカンナ(29)との出会いを駈(29)はどう処理したんだろう。ちょっとぽやんとしてるし「不思議な出来事」として処理してるかもしれないが。
"なかったこと"になっているのかな。次のリープでかき氷屋さんから飛び出す際に「なかったことになるから!」って言ってたのでそうかも。もう少し考えてみたいポイント。

結局、この回ではカンナは駈をそれ以上追わず、その後の直接的な描写はないが暗転し、電車のブレーキ音。シナリオブックによると、2024年12月29日の出来事だったので、翌日の描写があるということはやはり戻ってきたのだろう。
駈は同じ運命を迎える。

荒れた室内が切ない(公式𝕏より)


2024年 恐竜展

次、恐竜展。実はこの差し込みが作中唯一混乱し、解釈に悩んだ場面だった。
2024年12月30日の出来事である。
(あくまで自分用の整理で、チケットの枚数などまだ確認したいことがあるのでいずれ加筆したい。)

駈の遺した恐竜展のチケットは、レシート整理の際もさらっと流されていた。(確か1枚しかなかったと思う。)

同様に、ミルフィーユ前の、ハルキゲニヤの模型にびっくりするカンナも、駈の古生物への気持ちを懐かしむような描写はなかった(むしろ少し嫌そう?)ので、カンナにとってそれは、特に愛おしかったり、目新しかったりするものではないはずである。

そんなカンナが、駈の遺したチケットを持って展覧会に足を運んだのは、駈の人生を追体験するためだったのかもしれない。
カンナの手元には、2枚のチケットがある。

と、3度目の鑑賞でようやく整理がついた気がして眺めていると、あの場所でカンナと駈が重なる描写があった。生前の、恐竜展に来た駈。どのタイミングだったのか、あの几帳面な人のことなので財布に入れっぱなしってことはなさそう。死の間際だったのかもしれない。

確かに、クレジットに図鑑らしき書名が入ってるなぁとは思っていた。博物館で駈が子供向けの図鑑持っていることには気づいていなかった。その本に気づいた瞬間に涙が止まらなくなった。もしかして、あのときの図鑑? ずっと大事にしていたのに、処分してしまったあの恐竜図鑑なの?

駈の好きだったこと、生業としたかったこと。最期まで、駈は自身の研究分野を愛していたんじゃないか。
それをなぞるようなカンナの行動と、重なり合う映像の演出が美しくて切ない。


余談 硯駈と本と夢

そういえば駈は、研究を辞めた早い段階で専門書を処分していたのが印象的だった。シナリオブックによれば、結婚し2年後のクリスマスの描写だそう。仕事だから、とカンナに背を向ける駈の部屋の隅に、彼が大切にしていた子ども向けの恐竜図鑑も一緒に束ねられている。

当たり前に、専門書は高い。貴重である。しかも2009年、今よりもっと資料を集めるのは大変だったと思う。少なくとも弊研の周辺では、専門書や学会誌は研究室に寄贈や後輩へ引き継ぎがちなので、もしかしたらあの後譲る予定だったか、自分の手元に置いておきたかった本からも捨てたか。
研究室の内情がどこまで加味されているかは不明だが、研究者を志した者が専門分野の本を捨てることは、よほどの覚悟で決別を示す行為、あるいはもはや自棄だったのではないかと思う。

駈が最期に注文した本は、2015年の研究成果が記された、比較的新しい古生物学の専門書だった。
駈はなぜこの本を注文したのか。離婚を控え、ようやく夫としての自分から降りることができたのかもしれない。足を運んだ展覧会であの頃のことを思い出したのかもしれないし、離れて暮らすようになればカンナに未練を見せずに済むって思ったのかも。

駈が最期に注文した本(公式𝕏より)

カンナにとって、あの図鑑はトラウマだったのだと思う。収入が安定しない自分との結婚のために、駈の夢を諦めさせたという罪の意識があってもおかしくない。
研究を辞めて会社員になる駈を心配していたカンナだが、改めて、当時の冷え切った関係であんなふうに捨てられる本を見たら、自分に対する当てつけのようにも感じたかもしれない。

前回の感想で、硯駈にすっかりめろめろだったわたしは「研究を辞めたことをカンナのせいにはしなかったのでは」と書いたが、倦怠期駈なら1度くらい言ってたかもなぁ。直接人のせいにすることはなくても、「君"は"好きな仕事をしてるだろ」とか。プライドで言わなかったかもしれないけど。それくらい、すり減っていてもおかしくないなと思う。

「駈が会社員になって上手くやっていけるのかな」
「今の給料じゃ食べていけないし」
「わたしもまだ仕事ないけど頑張るし」
「カンナはいつか立派なデザイナーになれるよ」

p. 40

好きな仕事してる配偶者、夢を諦めた自分。比べたくなくたってどうしても目に入る。納得していても苦しいことは想像に容易い。
研究と人生は両立できるか。これに対する研究者の答えには生存バイアスが大いにかかっている。できたひともいる、が現状に近いのではないかと界隈に片足を突っ込んだ身で思う。

少なくとも駈(29)は、未来の見えない自分の夢に愛した人を巻き込まない人だっただろう。
同時に、もうひとりでは捨てられなかった、29歳まで必死にしがみついてきた夢に、終止符を打つきっかけに重ねたのかもしれない。それが悪いことではないと思うし、人間なので、ひとつの理由だけではないはずだ。ただ、カンナからしたらたまったものではない。

背景はどうであれ、夢を捨て、社会に草臥れてしまった駈が、その夢の象徴である、幼い頃から大切にしていた恐竜図鑑を大切に抱えている描写に、研究をやめても、慣れない仕事をしても、本を捨てても、ずっと好きだったその気持ちは捨てきれなかったのかと涙した。

そういう駈の「好き」を、カンナは最後のタイムリープ前に見たかったのかもしれない。きっと、「結婚しない人生」を選ぶとこの部屋で過ごした自分は消えてしまうから、最後に。

【シナリオブック精読後の、さらに余談】
この展覧会で出てくる駈、展覧会のカンナの"イメージ"の駈だったの余計につらいよ!!カンナの記憶の中には恐竜図鑑を"捨てさせてしまった"ことが色濃く残っていて、ずっと後悔していたのかもしれない。
同棲初日に「こんなの大事に取っておいてるくらいだから」って言ってるあの図鑑のことが頭にあったんだろう。確かに駈が持っている本ってもう処分してたはずだから、カンナの想像の中の駈というのも腑に落ちました。

骨格標本を見上げるカンナ(トレーラーよりスクショ)

そうなればやっぱり、カンナは駈の好きだったことを想うためにあの場所に行ったんだね

2009年 最後のタイムリープ

このリープは変則的に始まる。ホテルで目を覚ます駈。叩き起こされジャムの瓶を開け、部数の足りない資料を探し、カンナと出会う。これまであったわかりやすいタイムリープの演出はない。おそらく、この回は駈視点なのだろう。

一方、カンナの仕草や台詞は、突飛なことをせずに、初期に自然と出たやりとりをなぞっている印象があった。本当に最後だからこそ、ありのままの自分で接したかったのかもしれない。でもね、それって駈(29)が恋に落ちたあなたなんですよと言いたい。

お洒落もドレスアップまではせず、普段通り。
「ハルキゲニアですよね」「歴史好きなんです」って共通の話題を無理に作るでもなく、研究の内容を持ち上げるでもなく、自然体なのが良かった。こうやって、29歳同士のふたりは恋に落ちたんだろうなと思わせられる。

そんな最後のリープをするカンナの台詞で印象的だったのが、「面白くない話をする硯さんは面白い」。最初にかき氷屋さんに並んだときに、ハルキゲニヤを語る駈へ「役に立つ話よりマシ」だと話すカンナと重なる。
この言葉は本音なんだなと噛み締めた。

カンナってたぶん、駈のそういうとこ嫌いじゃなかったんだと思う。そうじゃないと研究者とは付き合えない。
最後に、素の自分で向き合うことにしたカンナは、かき氷だけどうしても食べたかったんだろう、ちょっとずるして走って、無事に座敷に案内されて嬉しそう。そういうカンナが愛おしくて、それを最後にすることへの切なさを覚えた。

この後のプロポーズの大好きなところは、既に初日につらつらと語っているので前回の記事をリンクして割愛。


恋が冷め、愛が薄れても残るもの

と、ここまで振り返り、カンナ→駈への感情について思ったことを更にいくつか整理したいと思う。
カンナと駈の関係性、何度か繰り返すことで、倦怠期の頃からカンナが言うような「」ではなかった気がして。「無」になろうとしていたというか、「期待しない」ようにしていたのだと思う。

最悪なのはその先、無
ボールペンが2本あります。お互いに期待しない。感情も動かない。無の状態。

p. 169

駈が死んでからカンナの時間は止まっている。
たとえばカレンダー。駈の部屋のカレンダーは、12月になっても、7月の事故から捲られていない。
骨壷も(離婚が決まっていた夫婦が納骨や墓を決めていたとは思いにくいものの)、少なくとも四十九日を過ぎても手元供養を続けるくらいの情はあった。
お骨の前で朝を迎える日もあったし、駈が死んでから部屋は荒れていて、カレンダーだって捲られていない。カンナの時間は、家族に置いて行かれた日から止まったままだ。

そう考えれば、「出してからにしてよ」も、回を重ねるごとに強がりに聞こえてくる。
前述したが、離婚届を書いた朝も部屋を見渡して、駈に何か話しかけようとしていた。ガタン、とドアの音が響くのが切ない。
夫婦生活にはお互いに思うところはあっただろうし、人間関係は基本、10:0はないだろう。

ただ、思えば先にベッドを分けたのは駈だった。部屋の扉を閉めて閉じこもった。話の途中で背を向けた。

カンナは、ずっと寂しかったんだと思う。
嫌い合ったわけじゃない、愛されていたし、愛していた記憶もあるひとが、少しずつすり減っていくのつらかっただろう。
ファーストキスの直後の回想、幸せだった頃のキスを思い出すカンナが、いじらしくて可愛くて脳裏に焼きついている。結婚式でも、初めてのキスでもなくて、当たり前の日常に溢れていたキスなんだなって。幸せだったんだなぁ。

結婚して2年後にはもう陰りが見えていた。じゃあ、手放しに幸福だと思えたのはいつまでだったんだろう。15年のうちのたったの2年でも、カンナにとっては初めは楽しかったって言えるのだと考えると、取り戻せないからということ以上にその過去は愛おしかったんだと思う。

あのふたりの破綻のきっかけを我々は明確には知り得ないけれど、少なくともカンナが好きになったであろう、自分の好きなものを生き生きと語る駈は、もういなくなってしまっていた。

でも、それって駈の好きなものはカンナとの結婚で潰えたように、カンナの好きだった駈はカンナとの結婚で翳った

どうしよう、つらい。ここから入れる保険をわたしは知らない。「なんか心配」って夢の中ですら駈を案じていたカンナは、2年後、図鑑を捨てた駈を見ても口を噤んだ。「君のせいだ」と言われたくなかったのかもしれない。駈も駈で、どうにも整理できない感情があっただろう。
こうなると、破綻するべくしてしている気がしてくる

それでもカンナは駈に生きていてほしかった。幸せだった思い出がなくなったとしても、今の自分に戻れなくても、それってやっぱり、「無」なんかではなかったんじゃないかな。

愛されて生きたひとは折れない

カンナの幾度にもわたるタイムリープの後でも、駈は同じ運命を迎える。

けれど、その過程は全く異なるものになった。ふたりの15年の描写に、キスシーンがなくても、明確な言葉がなくても、愛に溢れた日々だったことが伝わってくる。

靴下を勝手に履くこと、こたつで眠ってお風呂に入らないこと、コーヒーカップに入るパンくず。駈が「面白い」と表現するカンナの生態は、愛情が薄れたら途端にだらしなく思える行為だ
大好きで居続けるための努力を駈はしたのだろうし、やっぱりそれでああも続いたことを考えれば、ミルフィーユ前のふたりの破綻も、「無」のきっかけになる行動は駈が起こした「部屋を分けた」ことだったのかもしれない。

やり直した15年、駈は相当がんばったはずだ。条件は前回と同じ。配偶者は好きな仕事をしている。自分の環境はがらりと変わった。それでも、駈はカンナとの関係をよくするために努力をし続けた。それもすべて、また"君"と出会うためなので、つくづく愛の人だなと思う。

わかっていた15年、手紙を残すと決めたこと、何度も書き直し捨てたこと、あんなに愛おしい人を置いていく覚悟をしなければならないこと、どんな思いだったんだろう。
それでも誰かのために自分を投げ打つことが美徳かは一概には言えないものの、少なくとも15年後のカンナは駈のそういうところを愛していたんだと思う。家族か、他人か。歪な二項対立だと批判する人もいるだろうが、わたしは対立したのではないと思う。ミルフィーユ前のカンナがその天秤に載せたがっただけで、ミルフィーユ後のカンナはその天秤を取り出さない。
ただ、硯駈は身体が動く人だった。考える暇もなく赤ちゃんを助けられる人だった、それだけの話だ。

駈が残した手紙は、6月のカレンダーの裏から出てきた。あの生真面目で神経質なきらいのある駈が、である。カレンダーには付箋が張られて頻繁に使用されていたように見えるし、彼は2024年の7月10日に訪れる未来を知っていた。

自分を失ったカンナが、笑っていられるように。単純に、捲り忘れただけとは考えにくい。
事故の日付は7月10日。駈、早く見つけてほしかったのかな。7月と8月の間に挟んでもよかったのに、わざわざ捲らなかった6月と7月の間に挟んだ。

7月10日から8月に変わるまで、待っていられなかったのかもしれない。もしかしたら、気を落としたカンナが自分の死後の日付には変えられないと思ったかもしれない。それでも6月から7月へ変えることならまだ可能性はある。
その辺りを考慮したのだとすれば駈も、愛されていた自信のある人だなと思える。

駈が15年間をやり直した後のカンナは、最愛の夫を亡くしても、カレンダー捲ることができる女性だった。12月になっても時間が止まったままのカンナではなかった。夏の間にカレンダーを捲り、時間を進めた。餃子を焼くのに失敗して過去に戻りたがっていたカンナだが、ミルフィーユ後はどこかすっきりとした顔で、前を向き生きていこうとしていた。
駈の遺したトースターでパンを焼くことができた。きっと餃子も美味しく食べて、駈の靴下を履いて、柿ピーのピーは残るかもしれないけど、柿のほうが美味しいよって言いながら放り込むカンナが目に浮かぶ。

愛された人は強い。カンナが幸せに生きていくための「おはよう」も「おやすみ」も、「いってらっしゃい」も「いってきます」も全て残して駈は笑顔で去った。
あの瞬間、駈がカンナを思い出さなかったはずもないしカンナを置いて行きたかったわけでもないだろう。

それでも身体が動いてしまう愛の人に愛されて生きたカンナだから、駈を愛したままでいられたんじゃないかなぁ。

まだ気になるところもあるので、これからまたみてきます。

2025年2月11日 あしはら

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