立てば夏
すらりと伸びた、まっすぐな芍薬を見納め、あっという間に甘ったるい暑さが訪れる。家の前の校門、朝から飛び交う挨拶の声が聞こえなくなって夏休みを知る。都会は忙しないというが、日常は探せばちゃんと見つかる。プールに出かけるらしい子どもたちが駆け回り、後ろ姿にそっと手を振る。現実逃避した先で気持ちが涼しくなる頃、災害が各地で忘れ去られる前に、忘れるなと言わんばかりに警鐘を鳴らし、現実に戻る。それにしても、暑すぎる。
先日、とあるライブに足を運んだ。彼らの曲は1曲しか知らず、疲れていたのもあり、途中で寝てしまわないか不安ですらあった。でも、始まった瞬間にその不安は吹き飛ぶ。歌手の顔が見えない被り物の状態で登場した彼らに、観客が湧く。というか、気づいたら座席で踊りながら回っている観客までいる。それじゃあライブしている姿が見えないよ?いいの?と思いつつ、いいのか、楽しみ方はそれぞれなのか、とすぐに頷く。小さくはない会場で、結構な大人のほとんどがそうしていると気づいて、ライブ中の4割くらいを、観客を眺めて微笑むことで終えた。ああ、これが最高の空間というものだ、と思った。
ものづくりの先、作品。つまりは、有形に留まらず小説や音楽や映画、ひろく言うとエンタメだったりするわけだが、それらは誰もが平等に「知らなかった感情に出会える可能性のあること」だし、「誰かを救うもの」でもあり、必要不可欠ではないとされるが、本当の必要不可欠が存在することの方が稀である。あったらいいな、がたまたま続くだけ。ずっと、は約束しても手に入らない。たまたまの、お互いの積み重ねであり、偶然の連続としての結果。
いまだに、「知らない」ことが怖いというのは贅沢か。世の中のストーリーすべてが尊ばれるべきだと信じているし、誰かが知ることによって後悔を回避できるためだったら、なんだってする。知らなきゃよかった、なんて、知らないことより全然いい。だから、少しでも多くの作品が尊ばれるように、せいいっぱい「知ろうとする」ことからわたしは逃げたくはない。
「言葉にならないこと、フレームにできないこと、うまく消化できないこと。つまり、簡単にはいかないこと、と向き合い続けることが、ものづくりだと思う」
そういって、アイスコーヒーをすすりながら何時間も過ごした喫茶店を思い出す。あのとき、そうだね、がんばれって言えずに、きみらしいねと突き放したことを、心のどこかでずっと後悔している。わたしだって、そう思うことを全然捨てられずにいるのに。
もう安定できない、とあのとき思った。でも、踏み出して進み続けることでしか、いいバランスなんて見つからない。
たてば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。どうか、これからもしなやかに。まっすぐと、たまたま選ばれたものに惑わされず、ただ、自分の意志で選び取ったものを、ちゃんと信じ続けること。そういう眼差しだけが、この気だるい夏を救うのだ、きっと。