退屈恐怖症
 マジックバーというものに足を運んだ先日。どこかでみたことあるようなフォークを曲げる王道のそれや、気づいたらトランプが2枚両面くっついている事態に、普通に驚いたし歓声が止まらなかった。アルコールも相まってまわりの驚きも最高潮だったし、タネがあるに違いないという事実なんてどうでも良くなるぐらい笑った。あの夜は、最高だった。
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エンターテイメントの正体は一体何者か。物心ついた頃から、多分人よりも少しちかいところにエンタメというものがあった気がする。幼い頃、連れられた運動競技場でオレンジのユニフォームを着た選手が既に練習を始めていて、手を引いて連れられたわたしは訳もわからずその光景を眺めた。試合は楽しくてあっという間に終わったし、それが隣でモニター越しにどこかへ流れていることもわかった。とにかく、わくわくした。自分の目で見たものが、レンズを通すとこうも変わるのかと感動したし、突然だれかがスターになるのも一種の非現実だった。浮遊感がたまらなくて、もっと観たい、と思った。
ノンフィクションもフィクションも、生の出来事も本も、紙面でさらった場所に何度も足を運んだ。想像通りだったことなんてほとんどない。違いに愕然としたこともあるし、同じぐらい感動したこともある。地方のコンプレックスなんて一気に飛んでしまうほどどうでもよくなるくらい、圧倒的なものが世の中にはあった。
「知らない」ことが怖かった、というのは贅沢か。見逃してしまう瞬間があることが嫌だった。いや、というよりは好奇心を制御できなかったし、世の中のストーリーすべてが尊ばれるべきだと思ったし、それを知る前から判断したくなかった。誰かが結果を決めていても、そんなことどうだってよかった。そして、エンタメは誰もが平等に「知らなかった感情に出会える可能性のあること」だと信じて疑わなかったし、その文化を守り続けたいと願い続けている。
トランプのカードをめくり切った歳を、ようやく終えた。幼い私がなりたいと願ったような、わかりやすい肩書きはない。なんなら、よくわからない仕事をしている。でも、なるだけ「知らない」を超えられる手段がわかる大人になったよ。輪郭がはっきりしないままの喜びも、どれだけ向き合い続けてもわからないままのものも、わからないままで大切にとっておくしなやかさも、守り続けたい。
まだしばらくは、退屈が怖いままがいい。