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書くことは、思い出からの卒業。

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#春

融点

だらしない夜は、どうして暑いのだろう。眺める先は遠く、前の大きな水たまりを軽々と飛び越えている。影が揺れてしまった、もう会えないのだろうか。 すべてのやる気をなくしてしまうような憂鬱の中で、好みを完璧に把握して案内してくれるのに、目の前に座ったらほとんど口を開かない。なにをはなしたかったの、仕事のはなし、新しい暮らしのはなし。 入れすぎたシロップを舌に余らせて、渋い顔を向けてくる。なんかいいなよ、って思いながらも可笑しくてわらってしまう。 その日もわたしは静寂を待ってい

春、目の前の誠実にぶら下がって

きみの大丈夫が一番だ、と彼は言った。一番だったと思う。でもそろそろ、効力は切れてしまったでしょう。彼が残した、無理しなくてもいいよなんて言葉の効力も、もうとっくに切れてしまっている。 その一番が、きっとわたしの存在価値だったのだ。必死で自分のものにしようとしたスキルで構成されたものが存在価値ではない、と気付いていたからこそ。 唯一無二として分かりやすいものだっただけだ。それをわたしは愛と信じていた。本物だったかもしれないし、錯覚だったかもしれない。でももう、魔法は切れてし

いつだってやさしい言い訳をして、彼女は

自転車を猛スピードで走らせると、低い「ファ」の音がなる。ハモるように「ラ」の音で鼻歌をうたいながら校門をくぐると、体育館から「レ」の音が聞こえる。朝練の、いつものドリブルの音。その音がきみだから、好きなんだ ─── そんなわけのわからないことを、彼女は言った。 いい天気、という響きが好きだとも彼女は言った。言い切りで、笑顔になるでしょう、と続けるといつもの笑顔でこっちを向いて。きみらしいねと言おうとすると、ぼくの顔を覗き込んで黙り込む。 なんか顔についてる?と不安