楽しみよりも宿題を片付ける気分になってきたマーベル作品あれこれ
※『ワンダ・ヴィジョン』と『スパイダーマン』シリーズと『ドクター・ストレンジ』シリーズのネタバレがあります。ネタバレしかありません。
『ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』絶賛公開中につき早速行ってきました。が、観に行く前に乗り越えるべきハードルがいくつもありました。
マーベル作品の熱狂的なファンではなく、見始めたのは『アベンジャーズ エンドゲーム』が公開された時にパートナーから「騙されたと思って見てみて!」と布教されたのがきっかけと、遅め。その時すでに予習すべき作品がたくさんありました。アベンジャーズを理解するためにこれ全部見ないといけないのか、、、と思うとなかなかやる気が出ないため、手っ取り早くパートナーセレクトによる面白い&話の流れ的に絶対に外せない作品だけを一挙に観てから映画館へ向かいました。
見始めると案外面白く、特に『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』がお気に入り。超ハリウッドな大作シリーズも観てみると悪くないもんだなと見直しました。
『ドクター・ストレンジ 1』が面白かったので2を観に行こう!とその前に、『ワンダ・ヴィジョン』を予習しないといけないという情報をゲット。さらにパートナーから『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』がめちゃくちゃいいから『スパイダーマン』シリーズだけでも8作全部観ようよ、ノー・ウェイ・ホームはドクター・ストレンジも出てくるからせめてそれだけでも観てから行かないと話がわからないかもよ?と言われます。
ドラマシリーズに映画8本。映画1作見るために予習すべき作品があまりにも多すぎないか?アベンジャーズの時点ですでに作品数が多すぎて見切れなかったのに、今回はドラマまで見ないといけないとは。
もっと細かく注意すればさらに他のシリーズとも繋がりがあるようで、予習しなければならない作品の数はどんどん増えていきます。
作品世界が繋がっていくのがマーベルの魅力だったのですが、ここまで世界が広がるとそのせいで見るのが億劫になってきます。
きっとしっかり見ている人にしかわからない小ネタや面白さがあるはずだし、世界観に浸ることでこそ得られる感動があるでしょう。次から次へと見るべき作品が出てくるのは熱心なファンにとってはたまらない展開であることは間違いなし。素晴らしいファンサービスだと思います。
しかしマーベルにそこまでハマっていない私にとっては楽しみというよりは、こなさないといけない宿題が山積みになっている気分。
これからどんどん作品が増え、さらにサブスクリプションのドラマと連携するビジネスモデルが加速されていくと、もう着いていけないだろうなと思いました。
と言うのも『ワンダ・ヴィジョン』が面白くなく、2話目の冒頭でギブアップしてしまったのです。
ファンから怒られてしまいそうですが、全話見たパートナーに要約してもらいました。マーベルは大体見てきたパートナーも今作にはハマれず、飛ばし飛ばしで見たそうです。
以前映画を倍速で見ることについての記事を書いたとき、彼ともその話をしました。映画を倍速で見るなんてありえないよねと言っていたのですが、確かに、ドラマシリーズを見ないと新作映画が理解できないけれど全然面白くないって時には早送りしちゃうかもなあと、残念ながら初めて倍速視聴派の気持ちがわかってしまいました。
あまりに作品数が多くなり過ぎると、途中からマーベルワールドへ参加しようという意欲が湧きにくくなり新しいファンの開拓が難しくなるでしょう。それに軽いファンはめんどくさくなって離れちゃうんじゃないかなあと、マーベル帝国の衰退への一歩を感じました。
スパイダーマンシリーズも、ファンから作品への冒涜だと激怒されてしまいそうですが1作目から7作目までは予告編を見ながらパートナーに人間関係と結末を説明してもらい8作目のノー・ウェイ・ホームだけを視聴しました。
ここまで書いて自分でも、飛ばして見るくらいなら初めから見るな!と虚しい気持ちになってきました。でも見なければ新作が見られないのです。
でも『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』はなかなか面白かった。
異なる監督が撮った今までの3シリーズ7作品を実はマルチバースこと並行世界だったという力技のアイデアでひとまとめにする発想が上手い!
悪役を殺さず"装置で治療する"というのも良くも悪くも斬新で、これからのヒーロー映画の方向性が変わりそうだなと感じました。
これからは殺すのではなく和解へ。性悪説から性善説への転換が興味深いです。でも装置をつければ元通りの”良い人”に戻るっていうのはさすがにちょっと単純過ぎたので、これからの作品では和解の方向性や手段を発展させて行くのではないでしょうか。事故が原因で悪人になったけれど元々は良い人だったという設定なら装置をつけて元に戻すという考え方もありっちゃありだけど、一歩間違えたらロボトミーみたいで怖い。それに”悪”ってそんなに単純化できるものなのか?悪と善って白黒はっきり分かれるものなのか?という疑問が残ります。
そもそも今作ではスパイダーマンとドクター・ストレンジのミスで世界を崩壊の危機に陥れてしまうのだから、立場が変われば彼らの方こそ悪人とも言えます。ドクター・ストレンジとピーターのコミュニケーション不足はあまりに危険過ぎです。
みんなの記憶を操作したい!でも大切な人には忘れられたくない!というピーターの願いのせいでドクター・ストレンジの呪文が暴走したために大惨事になるものの、最後には結局大切な人も含めみんなに忘れられてしまうという皮肉な展開。
記憶を呪文で操作しようなんてしていなければ、並行世界まで巻き込んだ大騒動にもならず叔母さんも死なず、みんなにも忘れられることもなかったのです。初めから呪文になんて頼らなければよかった、なにもしない方がよかったというアイロニー。
スーパーパワーがあるからといって人格も素晴らしくなるわけではなく、それでも普通の人間ならちょっとしたミスがちょっとした失敗を生むだけのところ、超人がちょっとしたミスを犯すと世界や宇宙の破滅にさえ繋がる大惨事になるという危険性がこれでもかと描かれます。しかもヒーローになったからと言って決して幸せではなく、むしろ大変そう。責任重大で危険もいっぱいです。有名になるとアンチも増えます。ノー・ウェイ・ホームを見るとヒーローにも超人にもなりたくないなあという気持ちになります。
昔の映画は見ると、自分もヒーローになりたい!と鼓舞するようなメッセージが多かったように思います。私の場合『トゥームレーダー』や『インディアナジョーンズ』、『ミッションインポッシブル』を見て主人公になりたい!と勉強を頑張ったり格闘技を習ったりしました。
最近の作品はヒーローになんかなっても大変だよ、超能力があっても幸せにはなれないんだよ、それより普通の生活、普通の人生が幸せなんだよ、と観客に夢を見せない&現状に満足させようとするメッセージ性を感じます。
経済成長頭打ち、世界的に閉塞感が漂っていて、スーパーヒーローになろうなんて大きな夢を抱くより現実に満足せよ、と言うメッセージの方が響くのか、はたまたは民衆が大志を抱かずその他大勢であることに満足してくれている方がコントロールしやすいという大きな力の意志なのか、などとうがったことも考えてしまいました。
さてここまできてようやく『ドクターストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』を見に行くことができます!
マルチバースとは多元宇宙論と言い、私たちの住むこの宇宙(ユニ「ひとつ」バース)とは異なる宇宙が複数存在している(マルチ「複数」バース)という考え方。理論物理学の世界でも様々な説が唱えられていて、調べていくと止まらなくなるとても面白い論説です。並行世界はどこに存在しているのでしょうか。
宇宙は加速的に膨張しているけれど、じゃあ宇宙の外側には何があるのか?別の宇宙が無限に広がっているのかな?
我々が現在観測できるのは4次元までだけど、超ひも理論によると10次元まで存在していると予想されているらしい。観測できない次元には何が存在しているんだろう?別の世界が広がっているのか?
認識できないだけで、この現実世界と重なり合うように別の次元の世界が存在しているのか?と想像が広がります。
ものすごく大きい宇宙規模の世界を想像しても、ものすごく小さい素粒子レベルの世界を想像しても、そこには私たちには認識することのできない別の世界への入り口が広がっている可能性があるのです。
マルチバースというアイデアを物語の中にどう昇華するのか興味津々で観に行ったのですが、『ドクターストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』の中では特に目を見開くような斬新な展開がなく残念。
瞬間移動が瞬間異宇宙間移動になったというか、テレポーテーションが派手になったなという印象でした。まだまだ製作者側もマルチバースという無双なアイデアの方向性を探り中なのでしょう。これからの作品で世界観が深まって面白くなっていってほしいです。
それでも『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』も含め、映像技術の進化には唸りました。
『インセプション』で街並みがメリメリ巻き返してきた表現がアップデートされている、スパイダーマンとドクター・ストレンジの鬼ごっこシーンは圧巻。
平行宇宙へ移動する映像も宇宙と宇宙の間に存在する空間の映像表現も興味深いです。
それにキャリーやゾンビを彷彿させるマーベルらしからぬ恐怖映画感はとても良かった。特にゾンビのとんでも感が素晴らしい。ここまでやってくれると笑えます。『エターナルズ』然り、監督の個性を取り入れて作品に新しい風を吹かせる手法がうまいです。
そして今作も『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』と同様にアンチスーパーパワーなメッセージを感じました。
とにかくワンダが可愛そうなのです。過去に戻ったり並行世界に行ける可能性を見たり、スーパーパワーがあるからこそ諦められないで執着してしまうという、不幸。
常人ならば過去に戻ることも平行世界に移動することも魔術を使って誰かを蘇らせることもできないからこそ、いつかは諦めて前に進むしかない。しかし超能力があったら諦められるでしょうか?
可能性があるからこそ、狂ってでも全能力を駆使して無くしたものを取り戻したいと思ってしまってもしょうがない、と思うと超能力がなくて良かったなあ〜と思います。諦められると言うのも生きていく上で必要な能力だなと思いました。
ストーリー的にはワンダの使い捨て感が悲しく、ワンダを暴走させて、最後は反省させて自身の身をもってことを納めさせる(もしかして生きているのかもしれないけれど)というのもあまりカタルシスがありませんでした。
一作観るのに予習しなきゃ行けないシリーズが多過ぎる割には驚きもなくカタルシスもなく、そろそろマーベルはもういいかな。
と言いつつガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの新作が出たら見に行ってしまうのだろうなと思います。