対話すること、対話へ至ることの難しさ
大学生の頃に一瞬だけ、自主制作の映画やドキュメンタリーを上映する小さな映画館でアルバイトをしたことがありました。大型の映画館ではまず見かけることがないような珍しい作品が上映される映画館です。
あるとき反原発の自主制作ドキュメンタリーが上映されました。映画の内容は覚えていません。観客は少なかったと思います。普段から観客の多い映画館ではありませんでした。
内容は覚えていないのにこの作品が上映されたことが印象に残っていたのは、少ない観客のほとんどが、どうやら反原発の人たちや制作者と関わりのある人だったからです。その時に考えたことがありました。
例えばもしこのドキュメンタリー作品がすごく良い作品だったとしても、観に来るのが反原発の人たちだけだったら、仲間内で結束を固めるだけになってしまい、この作品の意義は半分しか達せられないのではないか。
原発について全く関心を持ったことがない人に届いた方が、この作品に新たな意味が生まれるのではないか。
さらに原発に賛成の人が観に来て、反原発派と原発賛成派が互いの意見を交換するきっかけや議論の場が生まれてこそ双方にとって得るものがあり、この作品が存在することの真の意義が生まれるのではないか、と。
しかし原発に関心のない人がこの映画を観に来ることはないでしょう。
それに原発に賛成の人だって、わざわざマイナーな映画館で上映されているマイナーな反原発ドキュメンタリーを探し出し、自分と反対意見の映画を見るためにわざわざ足を運び、しかも反原発派と原発賛成派がお互いに意見を交換し、建設的な対話に至るとなると、そこにはかなりの障壁があるように思います。
私だって映画館に行くなら興味のある作品や趣味嗜好にそった作品を選びます。原発の是非に限らず、例えば人種差別、政治的な意見の違い、貧困、宗教の対立、男女差別など、社会的な問題について自分と反対意見だとわかっている作品や、関心を持ったことのない主題の作品を、果たして進んで見に行くだうろうか。
一体どうやったら異なる意見の人たちの元へも作品が届くのだろうか。
同じ意見の人だけが集まって、やっぱり自分たちが正しいよねと共感し合うことにも意味があるとは思いますが、異なる意見の人たちが会して対話することや議論することにこそ、社会派の作品の面白さや存在意義があるのではないでしょうか。
しかし一つのドキュメンタリー作品が、対立する集団が対話に至るきっかけとなるためには、表現媒体の選択、宣伝の仕方、資金力、集客力、観客のリテラシーの高さなどなど越えなければならない課題がたくさんあって、難しいことだよなあと、小さな映画館でチラシを折りながら考えていたのでした。
そんな学生時代のアルバイトのことを思い出したのは、ここ数日、姫野カオルコさん著『彼女は頭が悪いから』を読んでいたからでした。
『彼女は頭が悪いから』は、2016年に起きた東大生および東大大学院生5人による集団強制わいせつ事件から着想を得て書かれた小説です。事件を元にしたノンフィクションではなく、あくまでも実際の事件とその時の社会の反応から着想を得て書かれたフィクションなのですが、”東大”という記号が大々的に使用されており、その内容には賛否があります。
実際に読んでいて、これは東大生からかなり反発があるのでは、と感じる部分もありました。そのため姫野カオルコさんを招き東大のキャンパスでブックトークが行われたと知った時は驚きました。姫野カオルコさん、批判されると予想されただろうに敢えて参加したというのは、本当にすごいことだなあと思いました。これこそ一つの文芸作品が、異なる意見を持つ者同士が対話に至るきっかけとなる良い例ではありませんか。
さて、著者の小説に反感を抱いているであろう東大生や東大関係者はこの作品についてどういう反応を示したのか、そして著者はどのような見解を述べたのか、ブックトークの会話を書き起こした東大新聞の記事を読んでみました。そしてさらに驚くことになりました。というのも残念ながら、小説の示唆する本質的なテーマやブックトーク冒頭で提示されていたそもそもの議題から大きく外れた、全く建設的とは言えない議論に終始してしまっていたのです。
小説自体も気持ちの重くなる作品です。特にこういった事件が起きた時に見られるインターネットでの被害者叩きに憤りを覚える方には、いたたまれなくなる作品だと思います。異なる立場にある人間のどうしようもないほどの分かり合えなさ、他者との比較で生まれる”プライド”、集団というものの暴力性にはリアリティがありました。さらにこのブックトークについての記事を読んでいると、まるで小説の中の構造が現実化されたようで、人間の分かり合えなさをヒシヒシと見せつけられます。
作品を読んだことのある方は、ブックトークとそれにまつわるインタビュー記事を合わせて読むと、さらに興味深い読書体験になることと思います。
自分の所属する集団が攻撃されていると感じてしまうと、人間というのはなんと弱い反応を見せてしまうものなのでしょうか。文芸作品を読む能力の必要性や、ジェンダー論と男女差別、性犯罪について話し合うことの難しさを打ちのめされるほど感じさせられる内容でした。
せっかく対話の機会が与えられたとしても、そこから建設的な対話ができるかというのはまた別の問題なのだなあと、対話ということについて改めて考えさせられています。
世の中の仕組みや流れがちょっとづつ良い方向へ進んでいくために、対話は必要不可欠なものだと私は思います。しかし対話するということがかくも難しきものであると突きつけられると、一体社会はどうやったら良くなるのかなあと、少し悲しく無力な気持ちになります。
大学生の時に感じていた難しさは形を変えて、いまもまだ心の中にあったのだなあとヒリヒリする読書になりました。