連載小説「オボステルラ」 2話「旅人リカルド」
2話 旅人リカルド
ふっと目を開けると、見知らぬ男性が、黒曜石のような瞳でゴナンの顔をのぞき込んでいた。一番上の兄と同じくらいの年頃だろうか。ゴナンを平らな場所に寝かせて、枕代わりに柔らかい布を敷いてくれている。
「大丈夫?」
まだ日の傾きはさほど変わっていない。気を失っていたのはごく短い間だったようだ。口元に湿り気を感じる。水を飲ませようとしてくれたのかもしれない。
「…ちょっと、お腹が空いて…」
頭がグラグラとして体を起こせずにいるまま、ガラガラの声でゴナンは答えた。ほぼ肩からかけているだけのような、ぐずぐずの前開きベストの下に皮と骨の体を見て「そうか…」と呟くと、男性はゴナンの横に腰掛けたまま、腰袋から固形の何かを取り出した。
「ひとまずこれ、食べて。非常食だから美味しいものじゃないけど。他は調理しないと食べられないものしか持ってないから」
見ると、寝袋などが結び付けられた大きなバックパックが脇に置いてある。旅人のようだ。
「あなたの食べ物を、減らしてしまう」
「そんなことを気にしている段ではないよ。僕は十分食べているから」
男性はゴナンの体を抱えて起こしてくれた。軽いのだろう、片腕でひょいっと上半身が起きる。
「先に水だな、さあ」
差し出してくれたのは、革の水筒。見知らぬ人の水を奪う申し訳なさがあったが、体が水筒に飛びついてしまった。ゴクゴク、まだこんな力が残っていたのかと驚くほどの勢いで飲む。泥のない、キレイな水。何ヵ月ぶりだろう、うまい。
「飲み干してしまっていいから、ゆっくり、ね」
目にかかるくらいの黒髪を揺らしながら、ニコリと微笑みかける男性。続いて非常食を手渡されると、ゴナンはそれもすぐさま口に入れた。パタ粉と木の実と果物を焼いて固めた、ビスケット状の非常食。咀嚼は弱々しくも、目を剥き無我夢中で頬張る。男性はゴナンの背もたれにできるように、バックパックを背中の方へと押しやって、時に咳き込むゴナンの背中をさすりながら見守っていた。
「…あ、りがとう、ございます」
ビスケット3枚を食べ水を飲み、落ち着いたところで、ゴナンはようやく男性に礼を述べた。申し訳なさや情けなさがこみあげてくる。男性は、そんなゴナンの様子に気付いたようだ。
「申し訳ないなんて思っているなら、それはきっと、水や食べ物が体に入って、君の心にちょっと余裕が生まれてきた証拠だよ。君の体にとっても良いことだ。気にしないで」
「でも、俺はあなたに何のお返しもできなくて…」
そう口にしたとき、ゴナンははっと、ミーヤのことを思い出した。みると、少し離れた場所に仰向けで寝かされて、上に布がかぶせられている。赤ちゃんが、腕の中。
「2人とも、亡くなっていたよ」
男性は淡々とゴナンに伝えた。ああ、もしかしたら赤ちゃんを抱えたまま、水を求めてこの2時間の道のりを歩いて来て、力尽きたのかもしれない。自分たちがこの川の泥水を届けることもできたかもしれないのに。そう悔いる気持ちもあったが、それ以上の心は動かなかった。この村で人が死んでいく姿を見過ぎているのだ。
「君の村では、弔いはどのようにやるの?」
「普段だと、家族が送り祠を作って祀りをやって火葬するけど、ミーヤさんの旦那さんは寝込んでしまっているらしいし…」
そうか…、と男性は呟くと、「旦那さんに確認を取って、祀りの手順を教えてもらえるかな? この場所で、できることをしてあげたいね」と意気高く伝えた。しかし、弔いなど、村ではもう、何ヵ月もまともに行われてはいない。
「あなたは…」
「あ、名前、リカルド」
「リカルドさんは、何をしにここへ? 村へ来るの?」
「そうだね、目的地は北の村で、ユートリア卿の家を訪ねようとしている所なんだけど」
ユートリアとは、「お屋敷様」の姓である。
「お屋敷様の、友達?」
「いや、会うのは初めてだね。僕は学者をしていてね、旅をしながら、研究のための調査を行っているんだ。鳥の伝承は知っている?」
また鳥。
「茶色い、龍のような鳥のこと?」
ゴナンは、兄に聞いた知識をそのまま伝えた。
「そう、龍のように大きな鳥がいてね、その鳥の姿を見た者には不幸が訪れるそうだよ」。
決して楽しく語るような内容ではないはずなのだが、リカルドの黒い眼がキラリと光を帯びた。
「でもその卵を得た者は、幸せになれる、そんな言い伝えがあるんだ。僕はその鳥を探して旅をしているんだ」。
「卵…」
卵なんて、もう何ヵ月も食べていないな…、などとゴナンは、最後に食べたニワトリの卵の味を思い出そうとした。
「この地域でその鳥が目撃されたっていう噂を聞いて、ここに住むユートリア卿を紹介してもらったんだけど…」
「鳥が来たのは1年くらい前だよ。俺は人が乗っていたように見えたけど、兄貴は、それは見間違いかもって」
「え、見たの!?」
リカルドはぐいっと顔をゴナンに近づけた。そして、「人が乗れる…? もしかして鳥は、空を飛ぶから鳥と呼ばれているだけで、違う生態なのか…? いや、ただ見た目の特徴は…」と考察に興じ始めた。
「しかし、1年も前か…。さすがにこの地域の情報が届くのは、時間がかかるなあ…」
「それからずっと雨が降らなくてさ、泉も干上がって、食べ物が取れなくなって、もうずっと乾いたままだよ」
伝承通りのことが起きている? ゴナンのその言葉に、リカルドはまた「えっ!?」と光を瞳に宿らせたが、その次の言葉は続けなかった。明らかに飢餓で弱っているゴナンの姿が、無遠慮な好奇心を自重させた。
「そうか…、村はだいぶ飢えているんだね。ユートリア卿はまだ北の村に住んでいるのだろうか?」
「お屋敷様は無事だよ。庭に井戸があるらしいから。食べ物が見つかると、水と交換してくれるんだ」
「無事…?か…。井戸、交換…」
ゴナンの語り方の違和感に、そう呟くリカルドの表情は曇った。それから、ゴナンの家族のことや、村の状況のことを細かく尋ねてきた。
「はは、五男坊でゴナンか。なかなか楽しい家族だね」
「俺はいてもいなくても気付かれないくらいだな。役にも立ってないし、いなけりゃいないで食い扶持が減っていいかもしれない」
「そんなことはないだろう、だけどね…」
リカルドはじっと、隣のゴナンを見つめて提案した。
-----「そう思っているのなら、例えばさ、この村を出て、卵を、一緒に探しに行くのなんて、どうかな?」
ゴナンは、どこか遠い国の物語のような心地で、その言葉を聞いた。旅?卵を追って?俺が?こんなにも飢えて、乾いているのに。村を出たこともない。名前しか知らないこの人と? だけども、一瞬、鼓動が胸を叩いた。
「……俺たちが今一番欲しいのは食べ物と飲み物で…」
胸を押さえて、ゴナンは言葉を吐き出した。精一杯の皮肉を。
「その卵、食べていいなら、行ってもいいけど」
「あ、ああ、そうだね、ごめん」
リカルドはすぐに謝った。何の謝罪かはゴナンには分からなかった。
「そうじゃなくて、つまり…」
リカルドがあせあせと次の句を続けようとしたとき、遠くから「おうい、ゴナン!」と呼びかける声が聞こえてきた。アドルフだ。
息を切らせながらふらふらと走ってきて、見知らぬ黒髪の男性と、横で座り込んでいるゴナンと、奥で横たえられている亡骸を見て、どういう状況なのかと少し身構えたようだった。
リカルドがすっと立ち上がる。アドルフと同じくらいの身長だが、体は大きく見える。
「私は旅の者で、リカルド=シーランスといいます。北の村を目指していたところで、弟さんが倒れそうになっているのを見かけて、介抱させていただいていました」
「ああ…、それは、お世話になりました。旅の足を留めてしまいましたね。ゴナン、大丈夫か?」
アドルフはかがんで、頭をなでながら弟の顔色を確認する。無言で頷くゴナン。その様子を見守るリカルドの表情は少し緩んだが、すぐに厳しい表情になった。
「あちらの女性と赤ちゃんは…、残念ながら、亡くなっていました」
「ミーアさん、赤ちゃんも…」
「ご遺体を見ましたが、赤ちゃんは亡くなって何日か経っているようでしたね。お母さんは、衰弱しているようでもあったけど、頭から血を流されていました。足を取られるか何かして、岩に頭を打たれたのかもしれません」
アドルフの表情は一瞬、つらい面持ちになったが、それ以上は動かなかった。ゴナンと同じだ。どちらかというと、ミーアとは面識も何もないリカルドの方が暗い表情をしている。
「可能ならあなたたちの方法で弔えればと思ったのですが…」
「それはありがたい話ですが。正直、私たちも見ての通りで…。村まで距離もありますし、連れて帰るのは難しそうです。ここで、できる限りのことをしましょう」
弔う、という、人として当然の発想も、ここでは随分悠長な話に聞こえた。もっと正直な話をすれば、亡くなってしまった村人を連れ帰るよりも、数時間かけてすくった樽1つ分の泥水を持ち帰ることの方が重要なのだ。言葉にせずともリカルドは察して、近くに穴を掘って埋めることに決めた。場所を旦那さんに教えてあげなければ。
「うちの村をお訪ねでしたよね? 私たちも帰らなければいけないので、一緒に行きましょう。2時間ほどかかるし、迷いやすい道なので、夜になると危ない」
「よかったらあなたもこれを」
リカルドは、腰袋からビスケットを取りだし、バックパックの脇に繋げていた水筒も取って、アドルフへ手渡した。アドルフの喉はごくりとなったが、すっと拒絶の手を出す。
「いえ、あなたの食べ物を減らしてしまうので…」
リカルドはふふ、と笑って、ゴナンの方を見た。
「…失礼。弟さんも先ほど、同じことをおっしゃったので。これは、案内いただくお礼です。私は十分食べていますから大丈夫ですよ」
「そういえば、どうして私がこの子の兄だと分かったのですか?」
「? ゴナンくんから家族の話を聞いていたからですが…?」
リカルドは、アドルフがなぜそんな質問をしたのか分からなかった。そうですか…、とアドルフはつぶやきゴナンの髪をくしゃっとかき混ぜて、「これは歩きながらいただきます。さあ、行きましょう」と歩みを進め始めた。
++++++
岩場を越え荒野を歩き、3人が北の村に辿り着いたのは、もう日が沈みかけた頃だった。
一家の家は、北の村の集落の少し外れにある。隣家が見えないほどの距離。「ただいま」とアドルフが小屋に入ると、長兄のオズワルドが出てきた。やはり干ばつのせいで痩せてしまっているが、線が細いアドルフやゴナンよりもがっしりとした雰囲気だ。金髪は短く刈り上げていて、声が大きい。
「おお、アドルフ、遅かったな。大丈夫だったか? その人は?」
アドルフがいきさつを説明し、リカルドは自己紹介をする。ゴナンは無言でその場を離れて、泥水の入った樽を厨房(とは名ばかりの土間)に置いて、いつもの破れかけたハンモックに横たわった。今日も疲れた。だけど、いつもの体の芯さえ定まらないようなだるさとは違う、少し心地よい疲労感があった。キレイな水と、しっかりとした穀物や木の実を口にできたからだろうか? リカルドと兄たちがいろいろと話をしている声を遠くに聞きながら、ゴナンはどっしりと眠りに落ちていった。
++++++
「こんな所にわざわざ旅してくるなんて、学者という人種は、物好きなんですねえ」と母のユーイが朗らかに話しかけてくる。
リカルドは家の奥、絨毯がしかれた空間に招かれ、オズワルド、次男・三男のランスロット、リンフォード双子とアドルフ、そして末娘のミィに囲まれていた。皆で絨毯に腰掛け、小さな火の明かりを囲んでいる。来客のために普段は点けない灯火を焚いてくれているのだろう。
「ごはんとお酒でおもてなししたい所なんですけどね、水の一杯も出せなくて…。本当は、うちはお客様を招くのが好きな家なんですよ」
「いえ、こちらこそ、こんな状況で急に来たのに、招いていただいてありがたいです」
リカルドは、自分の荷物からいくつかの食材を取り出した。干し肉に乾燥させた野菜、瓶につけ込んだ果物に、パタ粉…。
「旅の食材なので保存食ばかりで味気ないですが、これをみんなで食べましょう。調理が必要なので、この水も使ってください」
「でも、それは…」
そう口にしたユーイの言葉をリカルドは手で遮った。次に何の言葉が続くかはもう、分かっていた。
「今日、招いていただいたお礼です。私は十分食べているし、まだ自分の食材も持っています、気になさらないでください」
そしてまた、ふふ、と笑ってしまった。リカルドから見れば極限まで追い込まれているように見えるこの状況の中で、こちらの食べ物を心配してくれる一家の心根を、とても好ましく感じていた。
「実は、こちらがこんな干ばつに見舞われていると知らなかったんです。知っていれば、もっと助けになるようなものも準備できたのですが」
せめて馬か駱駝でくるべきだったな、とリカルドは後悔していた。最悪、それらをつぶして食肉にすることもできた。体調と体力さえ許せば、極力、自分の足で旅をしたいというのが彼のこだわりなのだが、今回はそれが裏目に出てしまった。
「で?」「何をしにきたんです?」
双子が声をそろえて尋ねてくる。ゴナンと同じ銀に近い金髪を、揃って耳上で切りそろえた、そっくりの2人。一卵性双生児なのだろう。2人して好奇心が強そうだ。この5兄弟は、髪と瞳の色は似てはいるが、それぞれ個性はバラバラだ。
「ランス、リン。そんな不躾に聞くもんじゃないですよ」と母・ユーイ。
「何しにきたのー?」と、そのユーイによく似た茶髪の少女がリカルドにまとわりついてきた。人なつっこい。
「こら、ミィ!」
「いいんですよ。僕は鳥の伝承の研究をしていまして、この北の村で大きな鳥が目撃されたという噂を聞いたので、実際に話を聞くために旅をしてきた次第です」
「鳥…?」
一同ははっとした顔を見せる。そのためだけに、こんな場所へ?という表情。
「大きな鳥か、ゴナンが見たっていっていたな」
オズワルドが、ハンモックで寝てしまったゴナンの方に目をやった。
「ゴナンがお世話になったようで、ありがとうございます」と頭を下げる長兄オズワルド。
「あいつは大丈夫かな? アドルフ」
「そうだな…。きょうだいで一番、弱っちいからね。もともとあんまりしゃべらないけど、最近はぐったりしていることも増えてきたな…」
「一番、食べ盛りの年齢なのに、食べさせてあげられないのがねえ…。あんたたちはこんなにでっかく育ったのに」
土間でリカルドが持ってきた食材を軽く調理しながら、ユーイも嘆息する。
「そういえば」「ミーヤさんの旦那さん、家で亡くなっていたってよ」
双子が話題を変えた。リカルドも聞き覚えのある名だ。今日の川辺での出来事を聞き、双子が様子を見に行ってくれていた。
「旦那さんが亡くなったのは少し前だったみたいだよ。それでどうしようもなくなって、川に向かったのかもね」
さらに重苦しい空気が部屋を包む。この家族の明るさにしばし忘れていたが、本当にこの村は、飢えているのだ。
「北の村にユートリア卿が住んでいると聞いて、知り合いのツテで紹介してもらったんです。僕が行くことは伝わっているはずなので、明日にでも訪問しようと思うのですが」
「“お屋敷様”ね…」
オズワルドは、少し苦々しい表情で呟いた。
「彼の屋敷には水が出続けている井戸があるとか。村人に分けてもらえないか、お願いしてみましょうか?」
「いや、それは無駄でしょう」
兄4人が、声をそろえた。驚くリカルド。
「その…、ユートリア卿は、ここの村長か何かではないのですか?」
「そうであればまだ良いのですが。村人を守る責任を負ってくれることになりますからね。でも彼は、多くのものを持っていて手放さないだけの、ただの老人です。お屋敷の中のことと外のこととは、まったく関わりがないのだそうです。何か対価を持っていけば別でしょうが」
と、長兄が憮然として語る。
「はあ」
「そして、我々があまりにも善良なんです」
鈍い光を目の奥に光らせてアドルフが続けた。善良とはほど遠い表情になってはいるが。
「詳しい事情は分からないですが…」
リカルドは少し笑みを浮かべて、目線を右斜め上に向けた。
「僕はこの村の人間ではないし、あまり善良な人間でもないので、まあ、“お屋敷様”に僕なりの話をしてみようかな、と思います。こちらに迷惑はかからないはずなので」
ちょっと悪巧みするような表情が、灯火に照らされ浮かび上がった。長兄オズワルドはえっという顔をし、双子はにやーっと笑って顔を見合わせ、四男はふふ、とほくそ笑む。末っ子は、兄たちの表情にきゃっきゃと笑っていた。反応もバラバラで、楽しい。
「こんなにみんなでおしゃべりするのは、本当に久しぶりね。さあ、ご飯をいただきましょう」
乾いて飢えた村、その外れにある小屋の一夜。思わぬ客の訪問で、以前はどんな夜を過ごしていたのか、少しだけ思い出した一家だった。
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