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シリーズ 昭和百景 「本田靖春も愛した“輪タクのマー坊” 友を喪った地下道の記憶」


 写真は筆者撮影。某所にある私有の「美術室」にて。コレクションの春画を背景に。もしさらに当時の時代状況や人間模様を深掘りしたいというご関心のある方は、拙著『吉原まんだら』か、ノート内のこちら「シリーズ昭和百景 吉原に生きる」もよろしければ覗いてみていただければ光栄です。https://note.com/nanaokazuaki/n/n3df10fa80d85

 
 


 思い返せば、上野が災禍に見舞われたのは1945年ばかりではなかった。関東大震災の折でさえ、上野は火の手に見舞われ、ごった返していた。駅舎の脇に立つ上野の山や池が恩賜公園として整備されたのも、関東大震災からの復興計画の一環だった。

 そもそも救護の場所として用意されていた上野公園の回りにひとが集まってくるのは、だから、決して偶然ではないように、少年には思えた。

 12歳で終戦を迎えた少年もむろん、大震災の悲劇は語りつがれるものでしか知りえなかったが、今から振り返れば、自身が受けた傷もまた、悲劇と呼ばれうるものであったのだと、そんな風に思えるのだった。あれからすでに、70年近くが過ぎようとしていた。

 

 終戦の年、正雄は日暮里にある開成中学に入学した。荒川に近い、尾久にあった自宅から日暮里までは通うにも近かった。幼い正雄とて、関東一円から俊才が揃う開成中学の名はよくよく心得ていた。だが、正雄にしてみれば、有名中学に通いたいという強い熱望があったわけではなかった。願書を出してしまったら、受かってしまった、そんなワケに過ぎなかった。昭和20年、日本が敗戦を迎えるその年は、戦中の混乱からか、開成中学創設以来、初めて入学試験がなかった。おそらく定員割れを起こしたためだろうと思われた。願書だけで入学が認められたのだ。そんな希有な事情もあって正雄は晴れて入学を迎えた。

 だが、入学して数カ月後の8月に終戦を迎えるその年、ほとんど学業らしい記憶もできないまま、気付けば正雄は焼け出されて地下道にいた。

 上野駅と銀座線とを結ぶ地下道には、雨風を凌ぎ、戦禍で焼け出された者が老若男女問わずに、溢れていた。そこは3月の大空襲でも地下であったことが幸いし、残っていたのだ。終戦とともに、上野駅の周りには不思議とひとが集まって来ていた。上野に行けば、どうこうなったわけでもなかった。

 占領軍にすべてその命運を握られたまま、しかし、その命運さえ、生かされるのか殺されるのか、向かっている時間の先に展望はまったくなかった。おそらく正雄が少年でなく、ものの判別がつく年頃になっていたとしても、それは変わらなかったであろう。ただ、終戦のときに生き残っていた、誰しもにとって確かなことはそれぐらいのものだった。

 だが、大人たちは不思議と駅を目指し、戦中、やせ細った、大人たちの尻を追い掛けるように、どこからともなく小さな尻も集まって来た。

 そのなかに正雄の友人たちもいた。

 

 暗い地下街は、夏でも降りるとひんやりとする。だが、腹が空っぽの身体にとっては、涼しさよりも寒気を感じてしまう。

 正雄もまた、食うに食えなかった。その日一日、一食、あるいは半食、ひとかけらでさえ、何かにありつければいいほうだったのだ。腹が減り過ぎて意識がもうろうとしながらも、正雄はふらふらと、なんとなく人賑わいを求めて尾久や東日暮里から始発駅である上野へと流れていた。

 子供や少年たちは大人たちの賑わいとそこからのおこぼれを求めて集まっていたとしても、大人たちがそもそもなぜ上野駅を目指したのかはわからなかった。だが、駅が持つ賑わいの記憶が、本能的に生き延びた者たちの足をそこに向かわせたのかもしれなかった。

 正雄たち、下町の人間にとって、上野駅は決して嬉しい記憶ばかりではなかった。3月の大空襲の業火とも呼びうる炎の竜巻は、上野駅のほうから、東から風に巻き上げられて襲ってきたのだ。戦中、浅草六区から河童橋を突き抜けて上野駅までは空襲による延焼を防ぐために強制疎開され、まるで大きな幹線道路のような道が抜けていた。だが、そこここで上がった空襲の炎はまたたく間に合流し、空高く巻き上げた火の手は流れる風に行く手を任せて、こちらに向かってきた。その火の粉の先が向かって来る先にはコンクリート造りで炎上を免れた上野駅があった。下町の人間にとって、大空襲はまるで、上野駅から放たれた火のようにさえ思えた。

 死んでたまるか、死んでたまるか、焼けてたまるか、焼けてたまるかと、呟きながら、正雄は火の手を背に、右に左に、まだ火の手の追い付かない日暮里の街並を川に向かって走っていた。

 そんな地獄絵図を抜けて生き延びたのは知恵ではなく、運でしかなかった。あの時、上野駅を背にして左へと走った者は生き、右へと走った者は炎に巻かれていった。

 そして、左へと流れていった大人たち、少年たちが、小さなコンコースに居た。みな、焼け出された者たちばかりだった。

 ふらふらと、夏だというのに、寒気を覚える地下街に降りると、昼間だというのに、まるでテントのなかのように暗いその地下道で石なのか、コンクリートなのか、ただひんやりと堅い壁を背にして、みな、足を投げ出している。寝ているのか、死んでいるのか、わからない。

 頸は力なく下を向き、腕組みをした大人たちは、微動だにしない。大人も子供も、まるで傷ついて横たわる負傷兵のようだった。ベッドに収まりきらず、皆、地べたに寝そべるしかない。そんな野戦病院さながらの暗い通路を、正雄もふらふらと彷徨うでもなく、足を進めた。自分でさえ、座るところがあれば腰を下ろしたかったが、それも許されなかった。横たわりこちらに投げ出された足の峰は途切れることなく、延々、暗い通路の向うまで、果てしなく続いていた。

 薄暗い廊下を、だが、知り合いの顔を無意識に探していたのかもしれない。

 不意に、見知った顔が浮かび上がった。

 あっ、と思った彼は名前が浮かぶ前に、彼の膝をゆすっていた。

 おいっ、おいっ、俺だよ、おいっ

 だが、幾度呼べどもこいつは目を開かない。

 横では復員兵だろうか、それらしき服装の男が帽子を目深にかぶり、じっとしている。

 返事はないが、しかし、間違いない顔だった。

 ほとんど学生生活らしいものなど送ってはいなかったが、中学に入ってできた友人の数少ない顔はいくつか覚えていた。

 うごかないこいつの顔を揺らしても、足を小突いてみても、どうにも反応がない。

 振り返れば、こいつの身体を揺らす正雄をじっと凝視する者があった。その視線はしかし、どことなく暗く、そして、正雄が振り向き、目があっても、逸らすことはなかった。もとより視線は絡むことはなかった。

 どれだけ以前に目は光を失ったのだろう。開いたままの目の奥は薄暗がりの地下道でも悟れるほどに、すでに澱んでいた。

 地下道を埋めた倒れた足と身体の間に、自分が潜りこむ隙などできようはずもなかった。

 生きた者よりおも、そこで命を落とす者のほうが多かったのだ。

 皆、戦禍を生き延びたにも拘らず、傷いた末に命を落とすのではなかった。空腹のゆえに餓死したのである。

 正雄は身体をゆすっていたこいつの手をそっと触った。それは、ひんやりとした地下道の空気よりも冷たく、冷え切った石の床よりも冷たかった。

 たしかこいつは数日前までは元気だった。その時はまだ笑いながら、この地下道ですれ違った。人間が命を落とすのは戦争だけではなく、食う物がないときもなのだ、と思った。

 餓死に直面したのはだが、戦争中ではなく、むしろ終戦を迎えてからだったと、正雄は思うのだ。

 人々は言う。

 終戦と同時に、駅のあるところほうぼうに闇市やら闇のマーケットなどが自然にできていって、そこで人々は戦後初めて生き延びたことの喜びや活気を取り戻して行ったのだと。

 だが、そんな言われようは、虫酢が走る。

 友人だけでなく、正雄は妹と弟を、飢餓で失うこととなった。

 生きること、食う事がどれだけ大事なのか、敗戦直後の上野駅での光景が、以来、正雄の記憶からいっときたりとも、抜け落ちることはなかった。

 その頃、上野の山に限らず、僅かな隙や土地の傾斜さえあれば、その傾斜地を壁にして、トタンや板で裾野をのばしたかのように屋根をつくったバラック屋根が急増していた。外から眺めれば、半ば地面に埋め込まれた半地下のような、いわゆる壕舎である。

 上野はとりわけ、この壕舎生活の軒とさえ呼べない、無様で惨めな流れが幾つも筋をつくり、そこをひとたび雨が流れれば、その筋に沿って、いくつもの川筋をつくった。


 そのままやむなく浮浪生活に突入し、そうした人びとが肩寄せあっていた上野公園では、49年まで、実に戦後5年間に渡り、毎冬、百人を超える凍死者を出していた。


 正雄はまさにその戦後「非常時」に、相次いで、妹と弟を失うことになったのだ。

 戦中、山形に疎開していた正雄にとって、上野駅はやはりもっとも身近に感じる駅だった。

 

 

 友人だけでなく、妹と弟を相次いで失った正雄には、なおも兄弟姉妹が残された。

「食わせていかなきゃなんない」

 腹を括った正雄は、上野駅を拠点に段ボールの回収に乗り出す。

「運送屋をやったんだよ、上野駅でな」

 乗り入れする汽車はしかし、昼間から板で窓が覆われているものが多い。戦中の灯火管制の一環で、列車から明かりが洩れ、敵機に見つかるのを防ぐためだった。

 さらには、窓ガラスや座席カバーのないものも多かった。みな、盗られたり、剥がされたりしてしまっている。そうでなくとも、物資に枯渇した戦争末期の惨状がそのまま、列車のなかにも残っている。

 だが、見ればひもじさに輪がかかる列車でも、ほどなく溢れんばかりに人々が戻って来て、客車に入りきらない人間はデッキに溢れ、人々はさらには屋根の上に上がり、それでもダメならば機関車の炭水車の上にまで登った。

 食料を求めて買いだしに向かう人々で駅も列車も溢れかえっていた。乗るかそうか、ではない。乗るか、餓えるか、だった。餓えれば、死ぬのだ。

 戦争が終ってなお、死は隣合わせだった。

 こんな調子だから、列車に乗る金をきちんと払っても列車にしがみつくのに苦労する有様だった。混雑は戦争が終ってさらに酷くなっていた。「車両の荒廃と石炭不足による大幅な列車削減」(『上野駅一〇〇年史』)が背景にはあった。

 買いだし列車と、それにしがみつく人々で戦後の上野駅は賑わいを増していた。

 皆、買いだしに向かう先は、東北だった。工業では食えないが、農業こそが命を救うのだと、誰しもが信じていた。工業地帯は重点的に狙われた空襲で焼けたが、農地は残っていた。

 冬は凍てつく寒さで、関東の人間たちは今こそとばかりに東北へと足を向けた。だが、買いだしとはいえ、当てがあるわけではなかった。飛び込みで農家を訊ね、食料を買いつけるのだ。

 もちろん、おそらくこの辺りにいけば何かあるだろうという、周囲の話や、すでに買いだしから戻って来た者々から話を聞きつけ、あるいは親戚縁者のある場所に狙いをつけたりと多少の当たりをつけて列車には乗り込むのだが、食料を手に入れられるかどうかの確かな当ては現地に行ってみなければわからなかった。地方に郷里がある者ならばまだいいが、東京以外に縁のない者にとってみれば、飛び込みでの買い付けには苦労も多かった。

 次々と訪れる買いだしに味をしめて、農家の側での売値も高騰する一方だった。足元をみやがって、と思うこともあったが、しかし、やはりそこは交渉事である。希望者が多ければ値段は上がる。皆同じ、なけなしの金を払っても、その買いつけられた量には天と地ほどの差が出てきた。

 買いだしは決して、闇市の商人や、商売をしている者ばかりではない。食う物欲しさに商売などしたことのない一般の人々までが、列車の屋根に溢れたのだ。

 糧を得なければ生き延びれないのだ。

 窮乏に耐えしのばなければいけなかった戦中とは裏腹に、終戦によって、人々の欲求は爆発したかのような様であった。

 だが、苦労は尽きなかった。多額の現金があれば、米や作物が貰えるというわけではなかった。農家にとっても、現金があったとて、買える物資が不足しているのだから、現金とて無用の長物になりかねない。そこで、二度、三度と買いだしに向かう者は、東京の闇市で、農家の希望の物を手に入れ、それを届けて、食料を分けてもらっていた。

 やっとのことで、何がしかの物を手に入れても、なおも油断はできなかった。

 上野駅が近づいてくると、しばしば途中の駅で警官が乗り込んでくることがあった。臨検と称して、米を押収していくのだ。戦争が終ってなおも、米は統制品であり、自由売買は許されていなかった。

 ズタ袋に入れていれば、すぐに見つかってしまう。少量に、しかも一粒でも落とさぬようにと細心の注意を払い、水筒や腰巻のなか、靴のなかなどに米を分けて隠した。

 なかには、上野駅に近づけば臨検がくるからと、終着の上野駅の手前、赤羽駅あたりで下車する者も多かった。

 しかし、列車を運行する側の気概は大きかった。人々の食料事情を支えているという自負からか、機関車や客車にはペンキでこう書かれていた。

「食料輸送はわれらが頑張る」

 庶民にとっては、鉄道だけが唯一ともいえる交通手段だった。上野駅は人々の生命を支える大動脈でもあった。

 必死ではあり、疲れも極度に達していたが、しかし、戦中の悲壮感とはまた違っていた。人々の背中越しに、生き抜こうという気力が溢れていた。どこか投げやりに、流れゆく状況に身を委ねるだけだった戦中とは違う活力に満ちていた。人々の背には小さくともか細くとも、希望と期待が芽生えていた。

 そんな人々が溢れていたのは昼間だけではない。戻る家のない人々はそこをねぐらにしていたし、翌朝の切符をようやく手に入れて、そのまま朝を待つ人、天井高く大きな屋根のある上野駅は、夜行列車が発車すると、夜毎、宿泊所となった。

 上野駅、中央改札口の構内は、だが、どこかしら、不思議な活気に満ちていた。

 そんな人々の傍らを通り過ぎる、優雅に映る一団がいた。

 占領軍が接収した専用車に乗り込む異国の人々である。

 上野駅構内には、占領軍の詰め所である、「鉄道輸送事務所」が設けられ、そこが関係者の輸送を差配している。彼らは戦災をくぐった列車のうち、状態がいいものを占領軍専用として接収し、彼らの移動や旅行のために利用していた。

 客車の屋根にまでのぼる日本人を尻目に、車窓からこちらを指差し、笑顔で手を振る異国の人間を見て、買いだし用のズタ袋を抱きしめた日本人たちは皆、屈辱を覚え、同時に、敗戦という現実を改めて突きつけられた。

「負けるわけにはいかん、負けるわけにはいかん」

 いつしか、買いだし列車のなかでは、誰からともなく始まった小さな呟きが拡がり、どこからともなく、そうだ、そうだ、と唱和する声があがった。

 その拍子が合って来ると、まるで歌のようにも響いた。

 いかんそうや、いかんそうやが段々と間合いが被って来て、いかんせいや、いかんせや、と聞え、まるでせやっせやっと、祭のような唱和が列車の屋根に響き、買いだし列車は東北へと旅立って行った。

 買いだし列車はそんなとき、人々の空腹を忘れさせ、小さな笑顔に溢れるのだった。屋根の上まで。それは、やはり、戦中にはない笑顔だった。

 

 いつしか、上野は飢餓を凌ごうとする人々と同時に、徐々に物も溢れだす。人々が持ちよった物は、いつしか生き物のように勝手を求めて動き出す。買いだしから戻って来た人々は、なおも不足しているもの、手に入れたはいいが、それをまた他のものに交換したいものと、交換場所を求めて集まるのだ。

 焼け野原となっている上野界隈で残っているのは上野駅と御徒町駅との間、線路沿いだった。上野駅を降りた人々は、まるで押し出されるかのように、高架下へと流れて行った。後ろへ向かおうにも、次から次へと駅から人が出てくる。肩が触れ合う群衆が、まるで秋鮭のようにひとつの方向へ向かって押しあい人の波を泳ぐ場所が生まれて行った。

 アメ横が誕生した。

 溢れたのは、統制品ばかりだった。米だけではなく、衣類もすべてまだ統制品の時代である。物資不足とはいえ、不思議なものだった。足りなければ足りないで、どこからともなく品が寄ってくるのだ。

 いつしか、そんな小柄な日本人に混じって、頭、一つも二つも抜け出た占領軍の異国人までが集まって来るようになった。その一帯だけはどういうわけか、しかし、統制品の取り締まりからは外されていた。

 そんなことも、賑わいを増した理由かもしれなかった。

 売る方も買う方も、そこだけは例外的な自由市場だったのだ。

 上野駅が物流と人の拠点として一気に活性すると同時に、荷を運ぶ運送の手も必要になる。

 偶然のように見えて偶然ではない、流れのなかにあるのは人だけではなく職もあった。

 とはいえ、駅に出入りする者が多ければ、当然、そこを仕切る者もいる。どのようにして有力者となっていくのかは、それは一筋ではないところがあるが、しかし、そこにも徐々に太い脈と細い脈、そして成功する者が現れてくるものだ。

 運送業とはいえ、段ボールの収集まがいのものまでひっくるめてのものまでやって、正雄は糊口を凌いでいた。

 そうこうするうちに、正雄は輪タクを始めることになった。自転車やバイクの後ろに座席をつけて人やものを運ぶのだ。浅草界隈から上野まで一帯で、正雄は、その輪タクを一台、二台と順調に増やしていく。

「おい、まーぼう、ちょっと頼むよ」

 昼は上野から浅草観光へと向かう客筋を引き、夕方ともなれば、浅草の花町へと向かう芸鼓衆から、吉原で遊ぶ客までを流れに、商売のリズムを掴んで行った。

「まーぼう、ちょっとお願い」

 正雄は、芸鼓たちばかりでなく、吉原で働く女性たちからの信頼も厚かった。

 それには、正雄の血筋も関係していたのかもしれなかった。

 正雄の母親は、浅草界隈で芸鼓として働いていたのだ。それが産みの親ではなく、育ての親であることを知るのは後になってからだったが、そうした客相手に営む女性たちと気脈を通じることができるのは、自身の身近にあった存在が関係していなくもなかったのだろう。

 上野駅の地下道から旅だった正雄は、いつしか、浅草寺界隈では知らぬ者はいない、輪タクのマー坊となっていた。

  

 大正14年に地下道にほど近い、御徒町に生まれた老夫が、台東区の聞き取り調査に答えたことがある。

 戦後2年が経った昭和22年に上野へと戻って来たのだが、そんなときでも、終戦直後と変わらぬ情景がそこにはあった。

「上野の地下道を寝ぐらにして昼はぶらぶら歩いている人達、お寺の軒下や橋の下などに囲いを作って住みつく人、公園に住みつく人もいました。上野公園とか、東本願寺の空き地とか、隅田公園などは蟻の町などと呼ばれる集落が出来て相当長い間人々が住んでいました。(中略)

 上野の地下道などには大人も大勢いましたが、親と家を失った孤児達が浮浪児と呼ばれて、はだしでぼろぼろの服を着て溢れるほどいました。そういう子供達はやがて靴みがきとかモク拾いといって煙草の吸いがらを集めるなどしてその日その日を過ごしていました。モク拾いなどは生活の知恵で竹の先にペン先をつけてね、上手に突いて拾うんです。拾った吸いがらは、吸い残った部分をほぐして再生して売るんです。そういう子供達はすさんだ生活になれ切ってしまって、『浮浪児狩り』と称して公共の収容施設に入れても何時の間にかみんな逃げ出して来てしまうんです。」(『古老がつづる 下谷・浅草の明治、大正、昭和』)


 新しい混乱と混迷と混沌の空気が上野駅周辺を覆っていた最中に、駅から至近の恩賜公園内の不忍池を埋め立てようとする計画が浮上した。戦中、食料増産の名目に、すでに一部が埋め立てられ、田んぼとなっていたが、ここをさらに完全に埋め立て、その一部には6万人規模を収容できる野球場にしようと、案は具体化していく。

 推進する側があれば、当然、反対勢力も生まれて行く。

 埋めるか、埋めぬか、で上野周辺の住民は二分されるが、上野を歓楽街として栄えさせたいという願いにおいては、どちらの勢力であっても思惑は一致していた。

 最終的に、完全埋め立て案は紆余曲折の末に回避されたものの、上野公園の整備計画はこれを奇貨に推し進められ、上野駅の公園口にできる文化会館構想やレストランの整備などが進んで行く。

上野駅前に、西郷会館と呼ばれる上野百貨店が現れたのは昭和27年のことだった。レストラン「じゅ楽台」は、上野駅から東京に初めて降り立った者たちの記憶に強く刻まれることとなった。 



 それからおよそ10年後―。上野署など警察の方面回りをしていた読売新聞記者の本田靖春が、ふとしたきっかけからこの少年と知遇を得た。

 のちに社会派のノンフィクションをいくつも世に送り出すこの若き日の本田とかつての少年は学年でいえば、同じ学年にあたった。

 本田が当時を振り返った『警察回り』の眼には次のような光景が映っていた。以下は『警察回り』における本田の記述である。

 

 昭和三十三年の三月限りで赤線の灯が消えて、吉原は生き残りの道を模索する。変動期を迎えたこの古い遊郭の行方を占うのに、私たちにとって何よりの情報源は、国際通りのほうの入り口にある交番の筋向かいでリンタク屋を経営するマーちゃんであった。

 彼も「カジノ座」の増山支配人と同様、私と同じ学年である。二人は畑こそ違え、二十代でそれぞれ一国一城の主を気取っていたのである。

 これも、あの時代なればこそであろう。

 昭和二十年三月十日の東京大空襲で、三河島にあったマーちゃんの家は丸焼けになり、彼は浅草で芸者をしていた生母のもとへ返された。そのとき初めて知ったのだが、実の母親だとばかり思っていたのは父親の本妻で、彼は世にいう妾の子だったのである。

 翌月、マーちゃんは中学に入ったが、戦後間もなく、家具製造業を営んでいた父親が事業不振から茅ケ崎の川で投身自殺をとげ、彼は新制に切りかわった高校の一年のときから、学業を続けるため、夜になると浅草の三業地で芸者衆を乗せて人力車を引いた。

 だが、自分を育ててくれた養母の面倒も見なければならず、大学への進学を断念して、吉原のリンタク屋の運転手に転じた。

 当然のことながら、他人に使われているより独り立ちしたほうがはるかに実入りがよい。そこで、昭和三十年に古くからあった飲み屋を買い取って、自分でリンタク屋を開業した。まだ二十二歳のときのことである。

 その資金は全額高利貸しから借りたので、金利に追われて一日も休まずに働き続けた。

 私が初めて彼のリンタク屋を訪ねたのは上野に移る以前で、まだ本所署のクラブにいた。そこの仲間である朝日の安達という先輩記者が何かの関係で彼を知っており、案内してくれたのである。

 それは冬のさ中の寒い夜のことであった。だが、リンタク屋は商売柄、通りに面した戸を開け放っている。客待ちする運転手たちは、三方の壁際につくりつけになっている木製の長椅子に腰掛け、土間の中央に置かれた炬燵の中に手足を入れて暖をとる。

 炬燵といっても、机の下に火鉢を潜り込ませて炭火をたき、熱が逃げないように全体を毛布で覆ったもので、つまりは私たちがクラブでやっているのと同じ要領である。

 私たちもその炬燵に入って油を売っていると、表に浮浪者がやって来た。顔が垢で真っ黒になっているので年齢がはっきりしないが、よろけるような歩き方からして、かなり老けているようである。

 彼は出入口の近くにいたマーちゃんの耳元でボソボソと何やら訴えている様子だが、奥まった場所にいる私たちはその内容が聞き取れない。

 マーちゃんは耳を掌で囲って浮浪者の口元にいちだんと近づけ、目は私たちに向けて声を張り上げた。

「なあに?酒代を恵んでもらいたいだと?そこにいらっしゃる旦那方にか?よし、いまうかがってみるけど、タダというわけにはいかんぞ。それじゃ、お前さん、乞食になっちあまう。オアシをちょうだいするからには、何か芸をごらんにいれなきゃな」

 私たちはマーちゃんにいわれるまま百円札を一枚ずつ取り出して、炬燵の上に置いた。

「さあ、芸をお見せしろ」

 いわれた浮浪者は黙って突っ立っている。マーちゃんはふたたび耳を掌で囲った。

「なあに?お見せする芸がない?水をかぶるから勘弁してもらえないかって?」

 これはマーちゃんの口から出まかせである。だが、浮浪者は表の角に設けてあるリンタクの洗い場に危なっかしい足取りで歩み寄り、水道の蛇口をひねった。見るからに冷たそうな水が迸り出て、それを下で受けるバケツが一杯になる。と、彼はその場にしゃがみ込み、バケツを両手で捧げ持つなり、頭から水をかぶり始めた。

 その間、終始無言で、その様が何ともおかしい。私たちが笑い転げているあいだに、彼は黙々とバケツ一杯の水をかぶり終え、二枚の百円札を握りしめると、全身からしずくを垂らしながら路地へ消えて行った。

 笑いがおさまると、この寒空に風邪を引きはしないか、と気にかかる。彼は老齢の上に歩き様が病人のそれである。

 そういう話をしているところへ、本人が戻って来た。

「何だと?もう一杯水をかぶらしてもらえませんかって?」

 とマーちゃんはいう。

 こちらは、もうけっこうである。いささか気が咎めていた矢先でもあり、前に倍する程度のものを渡して、引き取ってもらうことにした。

 だが、浮浪者は私たちの止めるのも聞かず、几帳面にもバケツに二杯の水をかぶり、濡れそぼった頭を深々と下げて立ち去ったのである。

 

 マーちゃんは鈴木正雄という。彼の名前は知らなくても、特殊浴場の角海老と角海老宝石のチェーンを知らないものはいないであろう。

 赤線が廃止された当時、彼は人力車四台とリンタク三十台を傘下におさめていた。それから数年後、吉原に特殊浴場の一号店を開いたのだが、現在では二十七店舗を擁するチェーンのオーナーで、その方面の日本一である。余勢を駆って角海老宝石のチェーン店も全国に広げた。

 年収一億七千万円といわれる彼は、若いころからボクシングの熱狂的ファンで、昭和五十三年、東京・大塚に角海老ジムを開き、その後、日本ボクシング・コミッション国際部長のポストに就いた。

 本田が鈴木をこう記してからのち、私はある偶然から鈴木と出会うことになった。その物語は以下に続く。              (敬称略)
 https://note.com/nanaokazuaki/n/n3df10fa80d85

 


 


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