シリーズ 昭和百景 「戦後・国家地方警察の記憶 大須観音 特飲街の花子」
86歳(取材当時)になった小野木昌紫は、生まれ故郷の岐阜県各務原市で、好きな歴史の研究に勤しんでいる。朝八時にはすでに三十度を超える猛暑の朝、小野木は白い帽子を被り、私を迎えた。決して大柄ではないが、元警官らしい筋の通った姿勢のよさと、無駄のない端正な口調が印象的だった。室内にいても時折、航空機の爆音が響く。第二次大戦中の軍用飛行場は現在、自衛隊が運用する。小野木はその爆音の下、警官人生の思い出を語り始めた。
一九二八年生まれの小野木は、終戦後の混乱の残る五二年四月、現在の警察組織の前身である国家地方警察に採用され、同年十月には、愛知県警の前身となる名古屋市警察に配属される。その後の警官人生を、もっぱら交番勤務と、音楽隊で過ごし奉職した。小野木はなんといっても、若い頃の交番勤務がもっとも充実していたと、そう話す。事件、事故だけでなく、よろずの世事が持ち込まれ苦労の多い交番勤務時代には、退職して二十年以上が経つ今でも忘れられない記憶があるという。
愛知県名古屋市内に大須観音がある。その裏手、北野新地は大正時代から遊郭として栄えていた。戦後、遊郭は「ちょんの間」と呼ばれる、女性従業員が男性客と同衾する特殊飲食店街となる。小野木は、この名古屋随一の歓楽街を見守る大須観音の交番勤務を拝命する。
「大須観音界隈には特殊飲食店の女性が沢山おりまして、そのなかに、お花ちゃんと呼ばれている女性がおりました。
この街には、戦後、小さな門口を構えたいかがわしい飲食店まがいの店が数多く進出しておりまして。飲食店とはいえ、一般の食堂ではありませんから。お好み焼屋とバーを一緒にしたような店づくりで、店はいわば隠れ蓑です。店は狭いんですが、けばけばしい化粧をした若い女性が店ごとに数人ほどたむろしているわけです。警官になって最初の赴任地がこの大須観音の交番でしたから、よく憶えています。
当時、風俗営業で公認されていたのは、名古屋でも東区の大曾根、中川区の八幡遊郭や中村遊郭といったところがありましたが、大須観音の裏は、表では飲食店を装って営業許可をとっていながら、裏では非公認の売春行為をしていたんですね。大須交番でもですね、証拠が挙がって裏が取れれば、どしどし検挙していたんです。
でも、そりゃ、相手は一筋縄ではいかない海千山千の者ばかりですからね。業者も我々、警察に挙げられれば、即、営業停止で商売あがったりですから、それはもう、巧妙な策を講じてましたよ。
実態はですね、飲食店は付近の連れ込み宿と結託してまして、お互いに電話連絡を緊密にして、囲っている女性たちを走らせたりして稼いでいるんですが、警察としてもこれを野放しにしておくわけにはいかないんです。常日頃、おおよその状況はもちろん掴んでいるわけですが、旅館側にしても、決して自分たちだけが不利になるようなことはいわないし、客や女性が証言でもしない限り、検挙は難しいわけです。
そこに一人、忘れられない女性がいました。それが、通称、花子と呼ばれていた若い女性です。
私がこの花子を知ったのはですね、観音さんの境内で財布を拾ったこの花子がですね、交番に届けてきたときでして、それを私が受理したんです。
花子が私にこういうんです。
『あんた、この間、観音さんの裏で犬の頭をなでてたでしょ』って。
私もまだ初任地にきたばかりで若かったですからね、こういった職業の女性から話しかけられるのは初めてだったんです。やっぱり職業柄か、お化粧も厚かったですし、どうも苦手でした。
私もただ適当に相槌を打ちながら、届けられた財布の受領証の書類をつくって、それを花子に渡したんです。花子はこっちのいうことなどまったく聞いていないような感じで、受領証の紙を食い入るように眺めていましたね。ところがそのとき、そこに署名した私の名前を読み上げるんですよ。びっくりしましたね。
その声の張りがですね、まったく屈託ないというか、そういう職業の女性にはない明るさがあったというか、びっくりしました。どうして、こんな明るい性格の女性がこんな職業に就いて、泥沼のような世界にいるのかと、その声を聞いて、なんだかやるせなくなってきましてね。
私もまだ多感だったんでしょうね。こうした女性のバックにある社会の歪みというものに対して、なんだか憤りを感じもしたわけですよ。やっぱり、まだ戦争の疵に日本そのものがあえいでいる時期でもあり、名古屋という街にも陽の当たらない日陰があるわけです。そしてそこには、自分自身の弱さもあるでしょうし、虚栄の気分から抜け出せずに、ゴミ臭い裏町の片隅で生き抜かなければいけない日本女性もいたわけです。私なりの正義感が、どうにもそういう現実を前にすると、割り切れない複雑な心境をもたらしましてね。
回りを見渡せば、バラック建ての特殊飲食店が軒を連ねているわけです。重要文化財に指定されて、経文が積まれているコンクリート造りの蔵なんかも雨に曝されていて…。そのすぐ近くで、法の網をくぐって女性たちを働かせている業者がいると考えますとね、どうにもやりきれなくなったんですね。
でも、そうした女性たちを仮に検挙してもですね、それをきっかけに彼女たちが立ち直りをみせるわけでもないんですね。自分自身に対する甘さもあれば、ダレ切った惰性の生活も災いして、また元の嬌態といいますか、巣窟に逆戻りをくり返すわけです。
女性達は一様に、鼻歌を歌って、洋モクをやたらにふかして、ときに恥知らずな言葉を吐きもするわけです。やけっぱちな態度にも見えますが、そんな人間はたいがい、弱虫なものです。そんな傍から見れば奇怪なグループが、交番のまわりには何人も集まってきているわけです」
後に県警の音楽隊に配属されることになる小野木は、音楽家ならではの感受性の強さもあったのだろう。検挙一筋の前に、そこに生きる人間達に強い関心を惹かれたようだ。
「彼女たちは、昼を過ぎると、決まって近くの銭湯に出かけていくんです。胸のところが大きく割れた原色の派手な衣装を着けて、髪にはタオルを巻いて、一見してソレとわかる恰好の女性達が、それぞれ手桶を抱えて交番の前を通って行くんですよ。
なかにはこっちに向かって挨拶する者もいますけど、大半は鼻歌を歌って、時には通行中の若者にどぎつい言葉を浴びせていくんです。
ただ、花子だけはそんな連中とは違ったんですよ。なんというか、少しましなところが残っていたというか。花子本人は三重県の出だと言っていましたが、彼女は話をしていても底ぬけに明るくて、交番にいた私としては、なんとか彼女に立ち直ってもらいたい一心で、足を洗ってもらいたくて話しかけていたんです。本人はでも、あまり真剣に聞いている様子はありませんでしたが。
観音さんのまわりの住まいはみな、戦災で焼けたままの仮住まいですし、復興のメドさえ立っていなかったですね。私の勤務地は、そんな一角でして、まさに仕事の虫そのものでした。非番の日の日課といいますと、当番日に受理した事件の端緒を掴むために、同僚の相勤者と一緒になって、管内のめぼしいところに聞きこみに回っていました」
当時は名称こそ「交番」だが、昼夜を問わず、非番もまた勤務に明け暮れ、公私の区別ない「駐在」勤務に等しかった。現在のような三交代制ではなく、二交代の二十四時間制であり、実質的な休みは半月で二日しかないという文字通り不眠不休の激務である。当時の交番は「ハコ」とも、炬燵から由来する「バンコ」とも呼ばれていたが、小野木の勤務するハコは、立地柄、名古屋市内でも有数の犯罪発生地区だった。だからというわけでもなかろうが、大須観音のハコには、戦中、隊長を務めたような軍隊上がりの猛者も多かったという。
「あるときですね、私が私服に着替えて交番を出た時に、後ろから寝不足だった私の肩が思いっきり叩かれたんです。驚いて振り返りますと、花子が立ってました。珍しくいつもの厚化粧を落とした顔の花子が立ってたんです。で、こう言うんです。
『いま、あんたんとこのハコへ、果物を届けに行こうとしたとこ。なによー、そんな寝ぼけづらして』って。
こいつ、相変わらず口が悪いなあと思いましたけど。
それをきっかけに、花子がどうして観音裏に流れてきたのかを聞いたんです。
花子は戦後の混乱期に母親に死なれたそうです。そのあとに父親のところに来た義母と折り合いが悪くて、高校をでるとすぐに家を飛び出したと。
花子が言うには…。
名古屋駅に着いたら、黒人兵二人が寄って来て、腕を掴んだまま放さないの…。ちょうど困っているところに白人のMPが来て助けてくれたわ。その白人のMPが、片言の日本語で、私の知っている人のところへいきないさいって、そう言うの。MPだからと心を許してジープなんかに乗らんけりゃ、よかったんだけどー。今から思うと、連れて行かれたところは外国人専用の連れ込み宿だったんのよ…。そこの女将というのが優しく食事なんか出してくれるから、親切な人もいるって感謝してたわ。ところが、その女将さん、二時間ほど私のところにつきっきりでいるんで、変だなと思ってたら、さっきの白人が一人で部屋にハ要って来るの。もうその時はMPじゃなかったわ…。誰も助けてはくれんかった。大きな声で叫んだけどダメだった…。駅を降りてすぐ、お巡りさんのところへ行ってたら助かったのにね。
花子は一度、検挙されたことがあったんですが、警察に対する恨み節なんかは口にしませんでした。あんたらも商売だもんね、なんて言って、割り切っている風でした。花子は父親とはたまに連絡をとっていたようです。父親が『俺が悪かった』なんて書いて寄こして、それを花子が『よわむしっ』と書いて送ってやるんだとか、そんなことを言って笑ってましたね。
花子は以来、交番に顔を出しますと、警察にはよく世話になったからなんて言って、カーテンぐらいは洗わせてくれって、かかっているカーテンを勝手に外しては抱えて出て行くんですよ。ですから、交番の奥にかかっていたカーテンは女湯で洗濯されていたんですが、それを知っているのは私と、もうひとり、話のわかる先輩だけでした。
まあ、花子はそういう子でしたから、一日も早く足を洗って職を変えるように口説いていたんですが、花子は一向に変わる様子はありませんでした。でも、何度も何度も同じことを言われていると、いつも楽観的な彼女の態度にも、時折、真剣に考え込むような様子が、少しずつですが見られてきましてね。
いつだったでしょうか、ある日、花子は突然ですね、界隈から姿を消したんです。私も先輩も、この失踪はやはり気がかりでしたが、いつしか故郷の父親のところにでも戻ったのだろうと、そう思うようになりました。花子がいなくなってからいつしか、交番の奥のカーテンが前のように黒ずんできましたけど、いつしかカーテンのことも仕事に追われるうちにみな忘れてしまって、花子のことを覚えている者もいなくなっていきました」
小野木はその後、昭和三十年一月十日付で名古屋市警察本部音楽隊に転勤した。その後のことである。
「久しぶりに、道で会った交番時代の先輩と街を歩いていたんです。ちょうど、市電が金山橋の名鉄のガードを渡っていたところで、もう秋口でした。私を呼ぶ声がしたんです。
関西なまりの混じった声でして、花子でした。花子は自転車を引いていました。
お花ちゃん、と、私も声をかけました。花子は懐かしかったんでしょうか、堰を切ったように話しかけて来ましてね、横顔なんかはずいぶんと逞しくなってました。暗い感じなどどこにもなかったですね。そこで彼女がいうんです。
オノさんには感謝しなきゃって。今ね、ここを降りたとこの鉄工所の部品を磨く仕事をしているのって。故郷のオヤジももうろくしてきたから、そろそろ親孝行してやらんと成仏でけへんって。迷惑かけると思うて、交番のほうには寄らんことにしてたん。でも、オノさんのことを忘れたことないんよって。
そう言って自転車のペダルに足をかけて、仕事忙しいから、失礼しますねって。
自転車の荷台には油の染みた木箱があって、なかには、ピカピカ光った小さな部品がいくつも覗いていました。
『ああ、お花ちゃんのほっぺに油のシミがついてるぞー』って私が脇から声をかけますとね、ああ、こんなもん、とか言って、花子は作業用のジャンパーの袖で、顔に付いていたシミを拭うようにして去っていきました。なんだか、その背中を見ていたら、彼女にも働く喜びが満ち溢れているように、耀いても見えました。
そうしたら、一緒にいた先輩がこう言って冷やかすんです。
『おまえ、いいとこあるじゃないか。彼女、案外おまえが好きだったんと違うか…』って。
私も鈍感で、女性の細やかな心理なんて分かりませんでしたが、そんな風に言われて、なんとなく浮き浮きした気分にもなりました。戦後のネオンが輝いていた街にも、それぞれ異なった人生があるんだな、とそんなことを思わせる花子との思い出ですね」
戦後のどさくさと艶やかさとが相まった花子の記憶がある一方、山間部勤務時代に衝撃的だった事件もあった。
「山間部勤務の悩みの種は、意外に多い、自殺なんです。山間部に来てから、身近に線香と数珠を置いていたこともありました。山林や雑木林での自殺、それも単独で、しかも年配者が多いんです。雑木林のなかを彷徨して迷ったうえで、木の枝に紐をかけて果てるんです。一年間で十体もの死体検分結果報告を書いたこともありました。しかも、我々が把握する段階では、死体の大半は日数の過ぎているものが多いんです。数カ月も経つと白骨化しません。でも、自殺者は季節を選ばないといいますが、やはり秋が多いように思います。季節そのものが人間本来の感傷をそそるのでしょうか。発見するひとは春になって山菜やタケノコを採りに山に入って、それで見付けるといったケースが多かったです。でも、忘れられない遺書がありました」
八月十五日、終戦記念日に発見された遺体には、遺書があった。
「中学二年になる息子がいる床屋のオヤジが、息子が、じいちゃんが起きてこんというので二階の爺さんの部屋を覗くと、ぶら下がっていたというんです。六十九歳の爺さんでした。机の引き出しから遺書が見つかりました。市販の白い封筒を開けると、数枚の便せんに、ボールペンで丹念に書きこまれた文字でぎっしり書かれていました。その遺書が、目を通しただけで、思わず背に冷気を感じました。遺書というよりも、怨念を連ねた呪いの羅列みたいで」
そこにはこうあった。
お前は、あんな嫁をとったが、わしは初めから反対だった。
あの女は、親を大切にしようなんて考えをもってはいない。
誰でもいつかは歳をとる。それにしても、こんな年寄りの少しばかりの年金を、家へ出してしまったら、わしの楽しみもない。子供には結構小遣いを渡している。その大事な親に、嫁は飯代を出せという。出さな、食うなと言うから死ぬしかない。
しかし、孫は可愛い。ゼッタイに親のようになるな。大人になっても、誰にでも親切にしてやれる人になれ。
親を見習ってはいかんのだ。わしは、この人でなしの嫁をゼッタイに許せん。末代までも呪ってやる、死んでも怨んでやる。
「これはみせられんな、と思いました。いや、見せてはいけないものだ、と。この遺書は、絶対に家族に見せるべきではない。警察官は生きている者を不幸にすることはできない。人は、表面では平和そうだが、裏では他人には分からないことだってある。現実に、そんな一人がここにいた、と。こうした老人たちはほかにもいました。古くから日本人の心のなかにあった大切なもの、その当たり前の心が、戦争に負けてから失われてしまったのだと、そうも思いました。
遺書に書かれた女房は、こう言ってました。
『…おまわりさん聞いてちょ。ほんとにこんなことしてくれて迷惑だわね。近所にも頭があがりゃへん、わたしんらーが何ぞひどいことをしていたみたいで、嫌な思いせにゃならんがね。じいちゃんが、朝ご飯食べにこんので、息子が心配して二階のじいちゃんの部屋覗いたら……、もうびっくりしてまって……。じいちゃん、首つっとるんだがね、オシッコまで垂れてなも……。うちは客商売だというのに…、ほんとにみっともない…』
遺書には、そんな嫁に対しての恨みが尋常ではなかったですね。八つ裂きにしても足りない、そんな怨念が文中に満ち満ちていました。思わず、戦慄が走りました。忘れもしない、怨念の遺書でした。八月十五日の終戦記念日の自殺でした。
私の歩んだ道は、戦後の、自治体警察から現代の警察組織への移行期でした。当初はまだ戦後の混乱期の影響も残っていて、職場では一カ月に少々の労務加配の制度がありました。いわゆる米の配給です。そんな時代の話です。人の一生なんて、時代の流れからみれば、ゴマ粒ほどの価値にも当らないかもしれません。でも、そんなゴマ粒にもドラマはあるんです。」
筆の立った小野木はそんな現役時代の回想で、幾度も県警のペンコンクールに入賞し、のちに、整理して『昭和の荒波を越えて ある警察官の回想』(文芸社文庫)など数冊の本にまとめている。そこには、今回紹介した話のほかにも、小野木らしい人間味と、そして僻地での警察任務の苦労を含めた情感豊かな地域住民との交流の逸話が輝いている。