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シリーズ昭和百景 メコンの蛍     国境を越えた「終わりなき戦禍」


 川べりにホタルの黄色い光が明滅し始めると、それを合図のように、紅玉の陽はメコンの上流に急いで姿を隠す。かつて、この大河に闇が訪れるのを待ち、数多の船が密やかに東シナ海へと下った。「ボート・ピープル」と呼ばれた彼らのうち、1万人ほどが日本へと流れ着く。それから30年…。政府・自民党は今、新たな労働力確保策として、「移民受け入れ100万人」を計画し、「移民庁」の設置を視野に入れる。だが、そこには「ボート・ピープル」と呼ばれた彼らの〝無国籍〟状態を解消する具体策は盛られていない。彼らはなおも、ここ日本で、生涯で二度目の漂流生活を送っているのだ。それは、海よりも果てない、永い漂流であるのかもしれない。


「脱出」 メコンの村


 ベトナム人女性のヤンは若い。結婚して家庭を持っているが、子供はまだいない。子供をつくらない理由かどうかはわからないが、こんなことを口にした。それは、日本に来て、20年以上が過ぎたヤンの現在の思いとして、日本人として耳にするのは辛かった。

「まだ、日本で生きていくのに不安があります。わたしたちは無国籍だから。日本ではインドシナ難民を保護する法律がないので、無国籍である難民の子供も無国籍になってしまうんです。ベトナムでは戸籍そのものが消されてしまっているし、公的な証明書を出せと言われるときは、とても大変です」


 乾季に入ったベトナムの田舎道は、日本では見ることのなくなった煤けた排気ガスと黄色い砂埃が治まりを知らずに襲ってくる。ホーチミンからすでに4時間。原付バイク(ホンダ)の後部座席で、クッションの悪いシートに押しつけられた尻が感覚を失った。

 ホンダはメコン川流域の都市、ミートーをかすめ、そこからさらに、10メートルは優にあろうかという巨木に囲まれた、うっそうとした森のなかのくねりに沿って小さな車体をきしませている。

 揺られながら、日本で出会ったあるベトナム人男性のこんな話も、不意に脳裏に浮かんだ。

「われわれが日本にきた最初のころ、1986年くらいまではまだ理解がありました。ベトナム難民なんですか、わかりました、やってあげましょうと、日本全国、どこの役所でもむしろ理解がありました。それはきっと、当時はまだ新聞やニュースでベトナム戦争の記憶が新しくて、そしてボートに乗った難民のことも知られていたからなんですね。でも、それ以降はニュースもほとんど出なくなった。われわれ難民が日本にいることもだんだんと忘れられていって、役所で働く若い日本人たちも知らなくなってしまったんです。日本は国際化とよく言うでしょう。ずいぶんと国際化したのに、皮肉なことです」

 元南ベトナム政府の軍人だったその男は、くぼんだ眼窩の奥から、優しげな、しかしときに鋭い光を放つまなざしでそう言うのだった。

 1975年4月30日、「サイゴン陥落」によって、25年にわたった南北両政府によるベトナム戦争は終結を迎える。だが、北政府は、かつての南政府の関係者や元軍人に対する弾圧を続けた。耐えかねた人々は、古びた木造船に乗り、脱出を試み、海へ出た。

 そして彼らは「ボート・ピープル」となったのだ。

向かっているのは、そんなインドシナ難民のひとりが脱出の拠点とした、森のなかの、地図にはない場所である。

 延々同じ風景が続く木々の間を、ホンダは進んでいく。緑一色の森は距離感を麻痺させ、あとどれくらい走り続けるのかさえ計算もつかない。ただ、ハンドルを握るフォンは少し前まで軍隊にいたというだけあって、オンロード用のホンダで、舗装もない悪路を器用に走り抜けていく。私はこの男の背に、ただしっかとしがみついていた。時間は十二分にある。そこには、夜までにつけばいい。難民たちの出発は必ず「夜」だった。


「脱出するのは月のない新月の晩です。月の明かりがあると船が見つかってしまうから。だから必ず、月のない真っ暗な夜を選んで脱出するんです。ボートの長さは縦が12メートルくらい。それを、二重底、三重底に改造して、66人が乗り込みました。そして、メコンの潮と時間を計りながら、脱出します。メコン川の脱出が一番危険だと言われていました。検問で見つかってしまうと、殺されてしまうからです」

 そう教えたのは、5歳のときにベトナムからボートに乗り脱出してきたヤン(仮名)だった。すでに結婚している彼女は現在、ベトナム語の通訳の仕事をしている。

 その脱出ボートを計画したのは、軍人だったヤンの父親だった。

 まだ若くして日本に来たからであろう。神奈川県下のある駅前でヤンと待ち合わせても、群衆のなかから現れたその姿に、異国のものは感じさせない。近寄って初めて、そのくっきりとした二重まぶたの美しさと大きな笑顔が、〝日本人離れ〟していることに気付かせるのだ。

 1975年のサイゴン陥落直後に始まった難民流出によって、日本にはおよそ1万1千人のインドシナ難民が到着した。そのうち、ベトナム人は8千人ほど。カンボジアとラオスの人々がそれぞれ1千3百人ずつを占める。

 1979年、日本政府は国際世論に呼応するかたちで、こうした難民の定住受け入れを決め、その年、兵庫県姫路市と神奈川県大和市に定住促進センターを設置し、日本語教育や就職あっ旋など援助に乗り出した。さらに、急増する難民数に対応するため、82年には長崎県大村市にレセプションセンターを、83年には東京都品川区の旧国鉄の線路沿いに国際救援センターを相次いで開設する。

 日本に到着する難民たちのほとんどはまず、この大村のレセプションセンターで健康診断や基本的な審査を受け、そして長期的な滞在設備が整った国際救援センターへと移る。そこで日本社会で生活するための基礎的な知識を身につけた後、姫路市や大和市といった、援助態勢の整った地域へと入っていった。

 現在、大和市のベトナム人の数は5百3人で、同市人口6千5百53人のうち7・6%を占める(10月1日現在)。ただ、なかには日本に帰化する人々もいるため、インドシナ難民の過去を持つ人数を特定するのは、大和市に限らず、かつて同様に定住センターを抱えた姫路市でも困難になりつつある。最近では職を求め、かつて震災に見舞われた神戸市長田区の製靴工場の現場へ移動する流れもある。

 そうして日本に定住したひとりがヤンだった。

 ヤンの乗った船は、台風にも遭わず、海賊にもつかまらず、二十日ほど海上を漂流した末に、オランダの船に発見され、救出された。

 ひしめき合う船底では、死者も出る。こんな不幸もあった。

「船底で両親が死んで、仕方ないので死体は海に流して…。でも、その子どもは頑張って日本で大学院まで終えて、頑張っています」

 今は同胞のベトナム人を支援する立場にもあるヤンだが、ときに複雑な心境をのぞかせる。

「生き延びるためにベトナムを出たのですが、そのときにはとにかく無事に脱出してどこかに辿りつくことを願うだけで、日本に行きたいとか、そんな具体的な場所までは頭になかったんです」

 ヤンに限らず、国際救援センター(06年に閉所)を訪れ、難民に話を聞くと、ほぼ間違いなく、ヤンと同じことを言った。

「むしろ、南の軍人のなかには、やっぱりアメリカに行きたいと希望する人のほうが多かったです。アメリカ軍との関係で、英語ができる人も多かったから」

 彼らの〝心の漂流〟は、望んだ米国の地に辿り着けなかったことから来るものだけではない。むしろ、縁あって定住した日本での、難民に対する〝無制度〟が、常に大きな不安を呼び起こすのだ。

 ヤンはこうも告げた。

「わたしが6年前に結婚するときも大変でした。結局、日本の市役所が婚姻届を受理してくれるまでに6カ月もかかりました。ベトナム大使館に行って、独身証明書を取ってこいというのですが、難民であるのに、大使館に行けるわけがありません。独身証明書も出せないんです。結局、法務局に出向いて、夫と私がそれぞれ別の部屋で取り調べみたいに質問されて、そして独身であることを誓うという陳述書を書いて、それでやっと役所は受理してくれました」

〝亡命〟してきた彼らに、本国の大使館に行けとは、不作法を超えて不見識にもほどがあろう。だが、役所側の担当者にも苦悩はある。「ケースバイケースで対応するしかないんです。彼らはあくまでも外国人登録法上では、日本国内ではベトナム国籍としますが、ベトナムの領事館などへ行けば、彼らはベトナム人ではありませんから…。無国籍の状態での不便はよくわかるんです。ただ、われわれにもどうしようもなくて…」

 インドシナ難民を受け入れ始めてからすでに20年以上が経つ。冒頭で紹介したベトナム人が話すように、やはり、「国際化」の虚実が垣間見えるような気がした。


 封印された「赤バラ作戦」

 

 関西在住のベトナム人のひとりが、こんなことを教えた。

「ファー・ホン・ローと言います。日本語では、赤いバラと訳します。赤いバラ作戦というのが、ベトナム共産党の秘密作戦としてありました。わたくしが知っているのは、79年にそれが始まったということです。それはおそらく80年代の半ばくらいまで続いたでしょうか」

「赤バラ作戦」は次のようなものだった。

「70年代後半から、多くのベトナム難民が流出して、ベトナム共産党は非常に頭を悩ましたわけです。難民がそれぞれの国に行って内情を明かすので、ベトナムの評判も悪い。その頃、ベトナム北部の刑務所は、収監された犯罪者でいっぱいで、どこの刑務所も満員の状態でした。そこで、彼ら犯罪者を、ベトナム難民を装って脱出させ、そのなかには共産党の工作員も紛れこませたわけです」

 この赤バラ作戦について、日本語のベトナム史について書かれたものには一切出てこないが、と告げると、「それは当然です。共産党の秘密作戦ですから」と言うのだった。

「犯罪者を難民として流出させることで、ベトナム難民の世界での評判を落とさせようという作戦でした。中に紛れている工作員は、私たちベトナム人のコミュニティに入ってきて、いろいろな噂を流したり、日本での私たちの動向を監視して報告したりと、さまざまな工作をするのです」

 

 脱出してきた元軍人の多くは、終戦後のベトナムで、北政府による再教育キャンプに送られたと証言する。そのキャンプでの「再教育」とは名ばかりで、便器の上に座らされたままで、施錠され、監禁される。そこを〝解放〟されても、2時間以内に遠くまで行かないと、再び捕えられ、殺されてしまう。それはまるで、北政府による〝人間狩り〟のようであったという。

 その再教育キャンプから無事に脱走を果たしたある難民はこう言って首を振った。

「もう、国全体が大きな刑務所なんですよ。どこに行ってもダメ。だから、国から逃げるしかなかった」

 それは、「ドイモイ(開放)政策」のもと、社会主義を感じさせない明るいリゾート地としてのイメージが定着する昨今のベトナムしか知らない日本人にとっては、もはや耳を疑う話に違いなかった。

 ベトナムは今、未曾有の〝好景気〟を迎えている。ハノイ駐在のある商社マンは驚きを超え呆れてみせた。

「それこそひと頃のシリコンバレーですよ。バブルさながらです。ハノイはとりわけすごいです。地元の役人までがロールスロイスやポルシェの新車を乗り回して、ヨーロッパのスポーツカーが溢れています。その一方で、庶民の暮らしは相変わらずで、農村部だけでなく、都市部でも日本の戦後と変わらないような暮らしが大半です。もちろん、政府の役人の給料でそんな贅沢な暮らしができるわけがないんですが、かつてのロシアのノーメンクラツーラ(特権階級)とまったく同じ構造です。賄賂と収賄が横行して、アングラでの稼ぎがとてつもない。ドイモイ政策で、欧米の投資を呼び込むことに成功したことで、こうした袖の下の権益がすさまじく膨らんでいるんです。社会格差なんて日本の比じゃないですよ」

 そんな祖国の微妙な繁栄は、インターネット時代ゆえ、日本在住の難民たちの耳にも容易に届く。そしてそれが、癒えない気持ちを、ときに逆なでる。

「そもそも、ベトナムは54年のジュネーブ協定によって南北に分断されました。その時、私を含めて、ハノイなど北に住む大量の人間が南に逃げたんです。その数は百万人とも推定されています。なかには、ラオスとの国境を越えて、タイやカンボジアまで逃げた人もいた。大量のベトナム人が脱出したのはその時が初めてです。そして二度目が75年です。我々は人生において二度、難民になったのです」

 別のベトナム人難民からは、拭い切れない怖さからだろう、こう強く念を押された。

「同じベトナム人でも、相手が本当に難民なのかどうか、なかなかすぐには信用できない。本当に心を開くことはできない。なかには、まだベトナムに家族を残している人もいる。もし、ベトナムでその家族が大変なことになったらまずいです。日本での〝北と南の戦い〟はまだ続いているんです。南の人間は北の人間を警戒しますから。結婚や交流もほとんどありません。北の監視には、日本でも脅えているのです。だから、必ず匿名にしてください。写真も絶対にやめてください」


「日本社会に貢献しないと」


 ところで、こうした怯えた心情を吐露するのは、とりわけ脱出するときにすでに成人に達していた「難民1世」に多い。

 すでに成人して日本に渡ってきたのは「難民1世」だ。ヤンのようにごく幼い頃や、日本で生まれた「難民2世」を経て、現在はその2世のなかにも子を持つ者は増えた。日本でのインドシナ難民は、すでに「3世」の時代に入っている。

 日本に定住するそうした難民たちの間には、「世代間意識」の問題も生まれていると、ベトナム駐在経験のある外務省関係者は教えた。

「難民の第一世代の人々はベトナム人としてのプライドを捨てずに、それは内に強く秘めて抑え込んで、うまく日本社会に溶け込もうと耐えている人が多いんです。しかし、幼くして日本に来た、あるいは日本で生まれた第二世代は、自分は完全に日本人であるという意識が自然に生まれています。第一世代にとっては、そんな第二世代の子らに、祖国ベトナムの文化をどう伝えていくかという悩みがあります。また、第一世代の高齢化も進行しています。彼らの多くは肉体労働で生活を支えてきたので、就労困難になるのも早いのです。戦争のトラウマもあり、やはりケアが必要になります。第一世代はかなり疲れ始めています」

 その「第一世代」にあたる難民の次の言葉は、とりわけ鮮烈な印象を与えた。

「日本社会になんとか貢献しないと、日本社会の荷物になってしまうんですよ。ただ、それがなかなかできない。それで、結局落ち込んで、鬱になったり失調症になってしまう。単身者はとりわけストレスが多いです。そして、結果的に生活保護を受けるようになってしまう。多いんです、本当に。本人たちは日本社会に溶け込むようにすごい努力します。でも、できない。やっぱり、言葉の問題も大きい。もっと日本語教育を工夫してくれたりしたら、ぜんぜん違ってくるでしょう」

「日本社会に貢献しないと…」。そんな覚悟を強いる日本社会とは、なんと残酷なのかと、私はそれを聞いたとき、天を仰ぎたい思いに襲われた。

 第一世代の難民に尋ねれば、彼らは異口同音に次のように話す。

「身分は大変に不安定。日本では難民と呼ばれながら、何の証明書もないから。難民事業本部が発行したものだけ。生活上、これはかなりのストレス。2世も3世もそう。家族をベトナムから呼びよせた場合も、彼らにあるのは難民証明ではなく、定住証明だけ。日本は移民の労働者を受け入れたり、認定難民を受け入れると言っているけれど、われわれインドシナ難民のような扱いになるんじゃないかと、大変心配しています。インドシナ難民は公的な証明書がなにもないから」

 振り返れば、私がインドシナ難民を取材するきっかけは、6年前に遡った。

 2002年7月12日、私は東京地裁で、日本橋・常盤橋上でのホームレス殺人事件の判決公判を取材していた。懲役20年を言い渡されたブ・バン・ホアは、裁判長をまっすぐ見つめ、「控訴しません」とベトナム語で答えた。

 ホアは、1989年にベトナムを脱出し、日本にやってきた「ボート・ピープル」のひとりだった。日本定住後は土木作業員をしながら窃盗などを繰り返し、すでにいくつかの前科を持っていた。そして出所後にホームレスとなって常盤橋に住み着く。

 ある日、日本人ホームレスの侮辱に耐えかね、文化包丁で心臓を刺したのだった。ホームレスとなったホアは、日本人仲間から残飯集めやタバコの調達を命じられながら生活し、あるいはダフ屋のためのチケット並びなどをやって糊口をしのいでいた。

 ホアが住み着いた常盤橋の下には神田川が流れている。その、排水によるものだけとは思えない、社会の汚濁そのものをまるごと呑みこんだような色なき色の濁りを眺めながら、ホアはやはり自身の辿った人生を重ねることがあったのだろうか。


 私は、ホアも浮かんだであろう、メコンの真ん中に浮かぶ小さなボートの上にいた。河口付近のそこは、岸から岸まで優に3キロ近くはあり、もはや海そのものだった。黄色く濁った水は、夕闇の訪れとともに、墨汁のような漆黒に変わりつつあった。

 借り上げたボートの持ち主が、片言の英語で執拗に尋ねてくる。

「もうすぐ本当に真っ暗になる。真っ暗闇の川を走るなんて本気なのか。自分の知っているカラオケにいかないか」

カラオケは、外国人客相手の売春宿だ。私は言った。「女性を求めてベトナムに来たんじゃない。闇を見に来たんだ。メコンの闇夜を見るためにきたんだから。真っ暗闇のメコンを走ってくれ」。そう言いながら、胸のポケットから、1ドル紙幣数枚をチップとして渡した。

 そして…闇が訪れた。川岸がどこかさえもわからない。地平と水平が、空と水が、河と闇がひとつになっている。月明かりのない新月の夜、闇にまぎれてボートに乗り込んだ何十万人ものベトナム人たちを見守っていたのは、ホタルの小さな光だけだった。闇夜に目が慣れ、そのホタルの光が力強く感じ始めたとき、漂流の行く末にもきっと、絶望を超えたものがあるはずだと、そんな思いがふと湧いた。

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