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毒舌 「すっぽん三太夫」シリーズ 「コロナ禍後に急増 『地雷移住者』というワナ」

 コロナ禍最中に始まった20年ぶりの移住ブームで、いまや日本全国の山という山は、さながら70年代の多摩ニュータウンである。


 昨日まで森であった場所はわずか数日でものの見事に禿げ山と化し、「今が売り時」とみた地元地主やディベロッパーによる開発は、ひところ全国で反対運動が勃発していた「太陽光発電」立地化をしのぐほどだ。


 かつて太陽光発電を反対していた人々も、地主らが「山を売って家を建てる」と言えば、それを反対するわけにもいかない。


 これまで閑静で風光明媚な里山や別荘地であった場所は、いまはさながら多摩ニュータウンか、千里ニュータウン。


 ディベロッパーもまたすごい。持ち込む手法は都会と一緒、である。

 つまり、都心の手狭な土地で利益を出す手法そのままだ。

 手前、奥、手前、奥と、上に細長い建売住宅を建てる要領で、田舎暮らしの家であれば従来は一軒がほどよい面積であった場所に、2軒、3軒、ついにはズラッと、トレーラーハウスを並べ、果たして山に来てまで都会と同じ距離感に暮らして何が楽しいのか、と思うほどのせせこましい風景が急速に拡がっている。


 だが、都会から避難してくる移住者らには、それもまた「新鮮さ」に映るようだ。

 

 時勢に乗って、デュアルライフだ、田舎暮らしだを前面に出して「バブル以来だよ」とウハウハの地元不動産業者によれば、そんな物件でも飛ぶように売れている。理由はこうだ。

「だいたい、都会でマンション暮らしをしていたひとばかりですから。都会で一軒家を持てていたひとは、狭小もいいところのこんな物件を買いませんね。マンション暮らしで息がつまって生きてきたところに、コロナ禍に襲われて、じゃあ地方に出てみるかとなった、いわゆる資産家ではない人たちが相手です。彼らにとっては、どんなに狭くても、ギスギスしていても、そうは見えないんですよ。いわば、夢のマイホーム、夢の一戸建てなんです。軽井沢以外はたいがい、日本中どこもそうじゃないですか。マンションが山小屋に変わっただけですから。コロナ禍での移住の層っていうのは、富裕層とはまた違いますから。むしろ長く公営住宅や団地で暮らしていたひとが、最後のカネを握って、小さくても一戸建てという夢をかなえに来るような感じです。だから、むしろ値段の張りすぎる物件よりも、小さなもののほうがいいんですよ。手頃な夢の一戸建て、で」


 結果、昨日まで風光明媚な里山に、違和感たっぷりのトレーラーハウスが急速に溢れてくる。

 このトレーラーハウスは、置くだけで別荘化する手頃なものだが、自治体にとっては新たな課税問題でもある。

 造るほうも売る方も、「車両だから固定資産税がかからない」を売り文句に、客引きをはかるが、あまりの急増ぶり、あるいは山間部に突如“置かれる”トレーラーハウスのすべてを現地調査できるわけではない。

 各地の自治体は「動ける状態のものは車両、そうでないものは家屋と見做す」とはいうものの、しかし、そこはそもそもが「車両だから固定資産税がかからない」という売り文句に惹かれて購入しているオーナーらである。

 巡回してくる自治体担当者から「これは家屋ですから課税しますよ」と言われて、おいそれと引き下がるわけはない。

「そこから先は交渉になります」という担当者も頭を抱える展開になる。

 なんといっても、相手は権利意識、権利主張、自己主張の末に都会で生き延びてきた「移住者」である。

 すぐに移動できる、移動させられる状態にあることが条件のトレーラーハウスでありながら、土中に浄化槽を埋めて水洗化、エアコンの屋外機も地面に、さらにはウッドデッキまで増設され、果たしてそれは「車両」なのか、「タイヤというアクセサリーがついた家屋」なのか。

 しかし、自身らの権利擁護と権利主張だけで生き抜いてきた移住者らはなかなかに手強い。

 地方の自治体担当者らは今、コロナ禍で呼ばれ、呼び込みした、こうした決して気持ちと財布に余裕があるわけではない非富裕層の「移住者対応」という、新しい「行政課題」を突きつけられているのだ。


 では、コロナ疎開、コロナ移住によって押し寄せた新しい地域課題「移住者という地雷」を踏まないためにはどうすればよいのか。

 ここに「移住者地雷を避けるため」「移住者という地雷」を見抜くための「鉄則」を示してみたい。


〇二言目には「プライバシー」を掲げる奴には気をつけろ

 都会人は二言目には「プライバシー」を口に出す。だが、田舎暮らしとはすなわち、プライバシーとは無縁の生活を指すに等しい。あるいはあっても、それを口にだしたが最後、地元地域とは「うまくやっていく気はありませんよ」と宣言しているようなものである。しかし、都会人は「プライバシー」を主張するのが大好きである。自治体の移住担当者や、地元地域で「プライバシー」などという単語を聞いた場合には、これはもっとも用心してかからなければならない手合いであることは間違いない。「プライバシー」という自身でさえどこまで判例を理解しているのかわからない都会人であっても、自身を守る万能の楯のごとくにプライバシーを主張し、そしてそれにとどまらず、プライバシーをもって地元までもを攻撃にくる。そもそも地方の暮らしに「プライバシー」など現実には存在しないのだから、そんなボキャブラリーなど辞書の死語でしかない。そんな死語と持ち出してくるのは都会人だけ、である。都会人とプライバシー論争をしても始まらない。プライバシーなどという単語を口に出す者はほぼ十中八九移住者とみなし、遠ざかるが勝ちである。


〇地元ナンバーの軽トラには気をつけろ

 軽トラとはこれまで、地元民特有のアイテムであったが、コロナ禍後はそれが一変した。愛用の外車やレクサス、SUVは走行距離を抑えるために屋根付の車庫に隠し、地方の公道は地元ナンバーの軽トラで走る者が激増した。これまでは軽トラとみれば、地元の誰か、であることが想像できたが、移住者が地元ナンバーの軽トラを乗り回している状況となって、もはや、車両からは移住者と地元民との区別がつかなくなった。軽トラは移住者の地元化カモフラージュのアイテムとなったのだ。これは地元民にはたまらない新手の侵入手段であった。これまで横浜ナンバー、品川ナンバー、船橋ナンバー、であったからこそ気兼ねなく鳴らせたクラクションも、同じ地元ナンバーとなればどこの有力者や大物が乗っているかわからず、遠慮が働くのが地方というもの、地元というもの。この地元ナンバーの軽トラでインターそばのスーパーにまで立ち現れるからもはや見分けがつかない。だが、同じ軽トラでも地元か移住者かを瞬時に見分ける最後のポイントが残っている。軽トラに草刈り機が積んであれば地元民、なければ移住者、である。移住者は地元総出の道普請や、共有地の草刈りなどは行わない、出向かないので、草刈り機を車に乗せて走ることはほぼない。移住者らもあの手この手で地元の風景に溶け込もうと必死だが、まだまだ、ということだろう。


〇領収書や明細を要求してくる奴には気をつけろ

 これまで地元自治会には御願いしても入ってくれない移住者が多かったが、こちらは昨今、多くのネット記事による警告が奏功したのか、地元自治会への歩み寄りも多少はましに、あるいはコロナ避難増とともに理解を示す移住者も増加傾向ともいわれる。自治体の頑張りもあるようだ。しかし、都会人は常に「明朗会計」であることを求めてくる。歌舞伎町のボッタクリバーのような扱いには極めて攻撃的になる。消防団や公民館でも集いにも移住者を参加させれば、必ず「年間の会計」や領収書を明示しなければ、移住者の気持ちはおさまらない。おさまらないどころか、訴えられかねないから要注意である。SNSがお盛んな最近では、自分自身でネット発信するので、メディアが取上げずしてあっという間に全国に知れ渡るということにもなりかねない。消防団や地元団体で移住者を受け入れることは「入れるも地獄、入れぬも地獄」でまったく踏んだり蹴ったりである。入れるのであれば、領収書の完備と会計の明示、使途明朗であることが徹底して求められる。また、移住者は会社経営者や個人事業主が多い。彼らは生活のあらゆる局面が「お付き合い」である。青色申告のためにはあらゆる出金に「領収書」が必要になる。移住者を受け入れるとは領収書を振り出すことが必要になるのと同義であると構えなければならない。なにからなにまで、どんぶり勘定で済ませられる地方には馴染まない人種である。 


〇「センセイ」には気を付けろ


 勤め人や経営者に加えて、コロナ移住で激増しているのが「センセイ」人種である。カネの余っているクリニック経営者の医師らは高級車で来て、カネだけ落として帰っていくのでまだいい。問題は、いわゆる作家センセイやジャーナリスト、ライターだのの、“センセイ”である。この手の人種は従前から場所を選ばずに仕事が成り立っているように見えるが、食えている者などまずいない。陶芸や絵画といったセンセイも多い。多いが、100人中99人は本屋や画廊で本も絵も見たことのないような手合いがほとんどである。つまり、自称がほとんどである。元ジャーナリストというのも最悪な人種のひとつである。問題意識だけはやたらと高く、日常目につくありとあらゆることを問題化し、ことを大きくする。地元にとっては毎日、付け火して歩かれているようなものでたまったものではない。おべんちゃらを含めて、センセイと呼ばれる商売のうち、まっとうに食えている者などほとんどいないが、彼らは一方で、極めて身軽に移動する。コロナ禍の風に乗って、パソコンとWi-Fiを抱えて流浪しながらデュアルだ、ロハスだ、ネットジャーナリストだと、地元のあれこれを突き上げては流転していく。移住者のうち、生活と商売が一致しているのは医者のセンセイだけであると心したほうがよい。大学のセンセイも要注意だ。自然回帰するほぼすべてのセンセイは「反体制」であると構えるに越したことはない。地元で祭り上げられ、学芸よりも活動家に転じる例が少なくない。もとよりその「反体制志向」が、地元民の慣習、慣例に向けられた日には、平和なふるさとが一夜にして戦場となるのだ。


〇境界画定には気を付けろ

 

 都会人は境界画定が大好きである。都会の感覚ですべてを「資産」だと考えるのだ。資産を維持するためには、不動産は境界画定していなければならないのだろう。だがそもそも山間部の土地はたいがい、緩い傾斜がついており、地面や土地は永年、下方に滑っている。こうした土地で地元民が境界画定している例などほとんどない。だが、都会人はそれを許容しない。資産には境界画定を行い、次いで果たして何を楽しみにきたのかわからないほど、目の高さ以上に塀を張り巡らせる。とにかく所有権は見えるかたちで囲わなければ気が済まないのが、都会人というもの。結果、成城学園前と変わらない風景がそこかしこに広がっている。コロナ禍とは、地方の成城学園化をもたらしたのだと納得させる。だが、越してきて早々、近隣に境界画定を持ちかけるのが都会人の特性でもある。この瞬間に田舎暮らしなど終わったと見做すべきだろう。人間関係崩壊である。ビジネスライクになどいかないのが地方というものだから。


〇芝生を作り始めたら気を付けろ


 都会人はなにかと芝生を敷きたがる。ゴルフ場のグリーンでも造成しているのかと見まごう手入れの良さである。地元にとってはこれほどありがたい話はない。都会人が求めるのは、ゴルフのグリーンと同じ青々しさだが、これは維持が難しい。ゴルフ場がどれだけのカネをかけてあの緑を維持しているのかを知らないのが都会人である。山間部で日当たりや気候、高度もあり、芝は実に造園においては“うるさい”植物である。また、海外種の芝を定着させるとなると、簡単ではない。もともと土まで入れ替え、さらに定期的に肥料を撒いたりと、それだけでも大変な費用である。かつ、芝は踏みつけにつよくない。一面に芝が広がっていれば、そこは移住者の土地である。かつ、芝は弱いので、そのうえでなにか作業をするとすぐにダメになる。それを理解した移住者は次からはなるべく、芝を踏まないようになり、まるでそこは触れることのゆるされない額装された絵画のような状態でしかない。芝の上でのんびり、どころか、芝は触れてはいけないもの、となったそこは、果たして何のための田舎暮らしの住処であるのか。田舎暮らしに理解のある移住者は、自生の野芝を選び、無理解の都会人はケンタッキーブルーグラスを選び、肥料とともにカネを撒く。この作法の違いから地元民は新たな移住者の「地元理解への姿勢」を看取るのである。芝を踏まないことが、移住者というワナを踏まない最短距離でもある。



 危ないのは、コロナ禍の移住者だけではない。最後に、コロナ禍で移住する者たちがドツボにはなる危険にも触れておきたい。


 地方ではコロナ禍によって、これまで売れなかった土地、売れなかった空き家や中古物件が売れてウハウハである。


 しかし、コロナ禍で残っていた物件の多くは、「コロナ禍前の物件豊富な時期にも売れなかった物件」であることに注意しなければならない。

 つまり、どこかに難があることを見抜く必要があるのだ。

 それを不動産業者が教えてくれることはまずない。コロナ禍による移住ブームは、不動産業者にとっては売り手市場天国であり、「この客を逃してもすぐに客が押し寄せてくる」状況だからだ。

 ほおっておいても売れる状況、状態、というのは買い手にとってはむしろ目利きの技術が求められる難しい局面であるともいえる。

 すでに述べたように、コロナ禍とは富裕層ではない層にまでマーケットが広がったことを意味するので、なけなしのカネでの新天地を求める人々にとっては、容易には失敗が許されない。

 ゆっくり選べた時期に売れ残っていたものがコロナ禍後には飛ぶように売れているといおう現実を踏まえ、今日、明日、あさって、それぞれの土地の地元の不動産屋に案内されていった場所をよく観ることが大切だ。


 長く、放置されていた物件は決して「大穴」ではない。実際に構造や建屋のどこかに本当の“大穴”が隠れていると踏んだ方がいい。

 そうした物件は購入したのちわずかで、「これならばもう一軒買えたのにな」と後悔するほど修繕にお金がかかるケースが多い。


 そんな危険とも隣り合わせのコロナ禍後の中古物件探しのなかで、比較的、安心だと思われるのは、「直前までオーナーが住んでいた」ものである。


 生活感が残っていてイヤだ、と思うかもしれない。しかし、直前までオーナーが住んでいて、コロナ禍で客が減って飲食店を畳んで都会の自宅に戻る、病院通いに入るので都会に戻るから、といった理由で地方での田舎暮らしを終える人々も増えている。

 そんな、永く住み続けてきて、空き家であった期間のほとんどない物件のほうが、安心なことが多い。

 コロナ禍後の売り手市場で、唯一の安心条件とはそこに尽きるといえよう。

「危なすぎる家に人は暮らしてはいない」のだから。

裏を返せば、「売れていない家、暮らしていない家」は危ないといえる。

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