シリーズ 昭和百景 「鉄路はなれて涙あり 国鉄解体、そして清掃事務所へ」
日本国有鉄道が解散し現在のJR東日本をはじめとするJR六社が発足したのは、一九八七年四月一日、今から三十六年前、昭和が終わる二年前のことだった。世の中が地価高騰による土地バブルに沸き始めようとする最中、全国で十万人を数えた職員が、雇用不安や再就職に向き合わざるをえなくなる。「その後」の人生は、文字通りの悲喜こもごもとなった。
一九四九年(昭和二十四)六月一日、運輸省の管理下で、日本国有鉄道が発足する。
元上野駅駅長の松本が国鉄に入社したのは昭和三十三年。岩戸景気と呼ばれる、いわゆる高度経済成長を支える好景気が始まった年だった。
上野駅を発着する常磐線の運転手を振り出しに、駅長となる九十三年まで、国鉄からJRへの組織改革をまたぎ、鉄道マンとして生きた。松本が国鉄に入社した時期は、、東京の人口が爆発的に増加する時期とも重なった。終戦当時、二百万人だった人口は、倍々に増して八百万人にまで膨れ上がっていた。膨張する東京に、「食」と「職」を求め、東北地方から途切れることなく人がやってきたのである。
「食糧事情っていうのは終戦になってからのほうが悪くなったんだよ。酷かったよね。俺なんか、実家は群馬県の百姓だけどね、兄弟が8人もいてさ、家のなかには、豚っころみたいにころころころころしててさ、百姓だって食うもんなかったからね。お米の飯なんか食えなかったよ。だいたい、麦飯か、さつまいもが入ったような飯だったよ。昼飯の時間になるといなくなっちゃうのがいっぱいいるわけですよ。みんな、弁当を持ってこらんねえから」
松本の鉄道マンとしての人生には、苦々しい記憶があった。
「やっぱり、あのストライキがトドメだったな。あれで、国民の気持ちがぜんぶな、国鉄から離れることになった。ストライキが決定的だったよ」
一九七五年十一月二十六日―。秋晴れのさわやかな空のもと、東京はいつものように朝の出勤時間を迎えていた。街に溢れた人の流れは、駅前に長蛇の列をつくり、道路は少しも先に進まないほど車で埋め尽くされている。
国鉄は八日間に及ぶ、前代未聞の全面ストライキに入ったのだ。
「昭和五十年だった。それまでストライキ権を実質的に奪われたかたちにあった国鉄労働組合が、そのスト権奪還に向けた最後の全面ストに打って出たんだよ。JRに分割される前のことだよ。全国の国鉄は一体だった、その国鉄が全国で一斉にストに入ったことがあったんだよ。あれはひどかったよ。出勤や通学の足はもちろんだし、、なによりも物流が止まってな。それは日本経済の大動脈が機能停止することを意味したから。結局、あのストライキを機に、国鉄の国鉄に対する怒りが爆発して、それで民営化に向けた動きが決定的になったんだよな。でも、国民の反国鉄感情は、すでにこの全面ストライキの前に、何度も大いなる伏線があったんだよ」
戦後、膨らみ続けた国鉄の累積債務は天文学的数値に達し、政府による年間、六千億円近い補助金の投入を持ってしても、年間の赤字は一兆円を超えた。政府の財政的な忍耐が限界に達しようとする最中に、国労はさらに我が身ありきのストライキを繰り返していたことが、松本の「苦い思い出」となった。
「あれで国民からも見放された…」
だが、前代未聞の「スト権スト」から遡ることさらに2年前、首都圏の利用者を激怒させる事件が発生していた。(以下は当時の記録誌から再構成・再現)
一九七三年四月二十四日夕刻―。
上野駅十四番線には宇都宮行きの通勤電車が止まっていた。だが、いつまで経っても発車する気配がない。
列車に異常はない。しかし、運転士がいないのだ。
順法闘争と称した国鉄の労働運動は、酷さを増すばかりだ。
このままではまずいと、幹部らは対応を協議。急きょ、隣の十三番線に停車中の急行を宇都宮まで各駅停車に変更して対応するべきだという声があがった。
定刻から四十分が過ぎた二十時十五分、怒りと安堵とが入り交じった満員の乗客を目いっぱいに詰め込んで、濃紺の車体がホームを滑り出して行った。列車を目で追った駅員らは、まるでお盆か正月の帰省ラッシュさながらの光景に唖然としつつも、ようやく乗客を送りだしたことで、つかの間、安堵した。
数分後、列車は変更予定通り、隣の赤羽駅に、スピードを落として滑り込んできた。
本来は止まらない駅に、見慣れない車体が入ってきたのを見て、ホームを埋め尽くした群衆の興奮はにわかに高まった。発車を待って上野駅を埋め尽くした群衆と同じほどの人の群れが、狭い赤羽駅にも溢れていた。
だが、すでに超満員の津軽には、乗り込もうにもその余地はほとんどなかった。
無理やりに身体を押しこもうとするが、それさえ受け付けないほど、津軽は満杯だった。
「乗せろ―」「窓を開けろ―」「叩き壊せ―」「割っちまえー」
あちこちから怒号が上がり、実際に、窓を叩き割らんばかりに、怒気を孕んだ力で窓を叩く音がする。列車は乗客らに押されて揺れる。
わずかの時間で、ものの見事に、ほぼ全車両の窓ガラスは割れ、群衆の怒りがそこから車内に流れ込んできた。
そこから乗り込もうとする者、実際に身体を押しこんだ者、すでに乗客というよりも暴徒と化している。
国鉄の闘争が始まって以来、列車の運行が遅れるのはすでに日常光景となっていた。今夜もか、今日もか、いったいいつまで続くのかと、朝の出勤、帰りの帰宅のたびに乗客や国民の精神は疲弊していった。
窓ガラスが怒号とともに割られる音がホームに響くと、群衆のパニック状態は凄みを増していった。
乗客らは、家路への歩みが進まない状況に、暴徒化した乗客たちは事務室に向かった。駅長室にも乗客らは乱入した。
そのとき、列車の屋根から赤い火の手があがり、そしてすぐに真っ白い煙がシューっと、あたりに噴きだした。
火の手があがり、まるで車内で焚火を焚いているかのような、ありえない光景の反対側では、わっしょい、わっしょいという声とともに、自動販売機が横倒しにされ、歪んだ販売機の扉の隙間から、中の商品を奪い合っている。
赤羽駅は、乗客から暴徒と化した人々によって無法地帯へと化していた。
この最中、一部の群衆は、線路上に降り立ち始めた。
電車の運行をあきらめ、線路を歩いて帰ろうとしていた。
緊急連絡を受け、国鉄は全線で運転見合わせになった。
すると、今度は帰宅ラッシュの客が殺到するターミナル駅各駅で騒ぎが始まった。
池袋、新宿、有楽町、東京、そしてついた、因果なことに、再び上野駅へと混乱は戻って来た。
20時15分にようやく津軽を送りだしてからわずか1時間後には、すでに駅員らでは収拾のつけようがない事態が起きていた。
当時の上野駅長を務めていたのは、第二十三代駅長の瀧瀬銀造である。
「駅長はどこだー」「駅長をだせー」
そんな掛け声とともに、中央改札口から逆流するかのように一団が、どのようにして駅長室を知ったのか、表に出た。
駅長室は中央改札口を出て左手の階段を上がった2階にある。革張りの応接セットが細長い大判型の卓を囲んでいる。
机の上には、緊急用と合わせて2台の電話機が置かれ、天井には代々の駅長の写真が飾られていた。
そこへも暴徒が押し寄せて、駅員と押し問答になっていた。
上野駅構内も、自動販売機は無残にもひっくり返され、商品は奪われるだけ奪われていた。
事態がここに至り、ようやく上野署が出動したときには、構内を埋め尽くした怒号の群衆の前に、機動服の警官隊も、構内に入りようがなかった。
警官隊の姿が目に入るや、群衆の興奮度は勢い、高まりを見せた。
上野駅や国鉄が、列車を運行させない非を認めないどころか、乗客である自分たちを排除にかかっているとも見えたのだろう。
興奮した群衆のなかから、警官に向かって、空き缶が投げつけられ、さらに警官隊と接した群衆のなかには警官を叩いたり、小突く者までが現れていた。
券売機も叩き壊される。
どこから持ってきたのか、バールのようなもので金庫までもが壊され、中の現金が盗まれていく。
騒動を聞きつけたのだろう、
乗客らとは明らかに風体に違いのある一群もいつしか混じっていた。
山谷方面から、鉄棒を手にした集団が、トラックの荷台に相乗りして騒ぎに便乗しつつあったのだ。
そんな光景を、警官隊も欄干の上から手も出せず、眺めるだけに留まっていた。
警察の見立てでは、群衆の数はすでに数千人に達していた。
そのとき、上野駅構内に溢れ、暴徒と化した群衆も皆、家路に向かおうとする唯一の足を奪われた気の毒な群衆に他ならなかった。だからこそ、警官隊も、あえて強制排除には二の足を踏み、躊躇していたのかもしれない。
「気の毒なのは、駅舎である前に、乗客であり、国民だよ」と松本は振り返る。
松本益二は、声を絞った。
「あのとき、国鉄時代の資料で残っているものは何にもないよ。負の遺産として、国鉄時代のものはすべて悪だっていって、JRに変わるときに処分されちゃってね。なかには駅長の写真さえも処分した駅があったんだから。記録だけじゃなくて、記憶も消えていくんだな」
国鉄から消えたのは記憶だけではなかった。大量の人員整理が行われた。
なかには多くが、当時の東京都清掃局(現在は二十三区に事業移管)で採用された。いわゆるゴミ収集の仕事だ。
一九九〇年代の始め、私はひとりの男と出会った。年齢から考えれば、彼も今では、その職場でもう定年を迎えているはずだ。
「国鉄はな、前な。いたよ。でもな…、騙されたんだよ…」
騙された?
「そう。騙されたんだ。まあ、正確にいえば、騙されたようなもんかな。国鉄が民営化されることになって、まあ、上の判断とかあってな、俺もそうだけど、JRに採用されないのがけっこうでたんだ。組合活動をやっていた者が再雇用されなかったとも言われてたけど、そうともいえなかったよ。あれも嘘が多い説明じゃあないのかな。俺なんかももちろん組合には入ってはいたけど、そんなに激しくやってたわけじゃなかった。組合員だとストとか上が決めればそれに従わないといけないから、その程度に参加はしてたよ。でも、言われた通りにやるだけで、自分から積極的にやってたとかそんなわけじゃなかったよ。俺はね、運転手だったんだよ。常磐線ってわかるか。千葉の取手とか、向うと上野とかを通してるやつだけど。そんなにガリガリやってたわけじゃなかったんだけどな、組合なんて。言われるがままに参加してただけだったし」
「彼」はちょうど四十歳のときに、国鉄解体の余波で整理解雇された。
「それが突然、だもんな。JRになるんだって言われて、でもそのまま運転で残れると思ったんだよな。そうしたら新しい就職先を探してくれ、だからな。まだまだあと定年まで20年近くはあると思ってたし、参ったよ。女房にも言えなかったしな。流山に家を買ったばかりだったから。ローンはどうするのかとか、大変なわけよ。家庭持つとな。俺の田舎は秋田なんだけど、オヤジやオフクロにもクビになりましたなんていえないもんだよ。心配させたなくてな。参ったよ。そしたら、やっぱり組合の人間で、就職先を斡旋してくれるのがいてさ、心配するなっていうんだよ。公務員の口があるから、用意するからって。それで面接と、なんか筆記試験みたいなのもかたちばかりやったような気がしたな。東京都の職員になるからっていわれて、それならよかったって思ったんだよ。国鉄だって、公務員みたいなもんだから、東京都の公務員ならば悪くないって思ったんだ。ただ、役所の仕事なんかはやったことがないから、大丈夫かなっていう心配はあったよ。でも、そんな心配は要らなかったよ。公務員っていったって、ようはここだったんだよ。役所の事務じゃないんから」
時折、ウーロン茶の缶に口をつけながら、「彼」はこう言うのだった。
「騙されたっていうのはさ、別に東京都の職員だっていわれてきてみたらゴミの回収だったっていう話だけじゃなくてさ、おそらく組合自体というか、仲間にもな、騙されたって思うわけよ。組合の連中ばかりがJRに行けなかったって言われるけど、そうとも限らないんだよ。俺みたいに言われるがままに動いてた末端の人間じゃなくて、もっと激しくやっているのが逆にJRに残っていったのも多いんだよ。そういう連中こそ本当にうまくやったんだろう。だからさ、みんな駆け引きなんだろうな。それで、犠牲にされるのは俺たちみたいな末端の人間なんだよ。組合と国鉄とでも、世間への表向き、組合の激しいのはJRでは雇用しませんでしたみたいな体裁をつくるために、確かに組合は組合でも、末端の俺たちみたいな、切りやすいのを切って、数を合わせたり、見かけをつくったんじゃないかな。だから、俺は国鉄に切られたとは思ってないよ。仲間に切られたんだし、要は仲間に裏切られたんだよ」
「彼」らは決して少なくない数がいた。彼らが元国鉄の職員であることは出勤時におおよそ判別がつく。
「…背広はね、暑いよ。でも、あれはね、実はね、好きで着てるんじゃあ、ないんだよ。俺は。俺はっていうか、たぶん、みんなもだな。皆の事情は知らないし、一番最初に誰が背広で出勤し始めたのかは知らないよ。でも、俺は最初からだったなあ。女房にはね、最初、JRにいくのが駄目になったとき、東京都に決まったからっていったら喜んだわけ。でも、それが清掃局だっていうことになって、それを言ったらさ、子供がかわいそうだとかなんとかいうわけよ。近所の手前がとか。同じ住宅地だと団地じゃなくても、なんとなくみんな誰の家はどこに勤めてるとか知ってるわけだよ。だから、JRに行けなかったなんて話も広まってるんだろうな、女の社会もまたな。で、どことなく次はどこに勤めたのなんて訊かれても、東京都ならばまだしも、ゴミの回収してる現場とはいえないわけだよ。それで子供がかわいそうだなんてな。俺もなんとなく頭にきたよ。国鉄マンの運転士ならば大丈夫でゴミの回収は人に言えないとか、子供がかわいそうとか、なんだと思ってね。でも、家族にそう言われちゃうと、自分がよくても、どこかしらそんな家族の気持ちはそれとしてあるんだなって、どこかで心に残っちゃうわけだよ。だから、女房には、清掃局でも内勤だっていうことにしてあってね、それで少し納得してもらったわけ。だから、事務所に行ったら作業着に着替えてゴミのヤマを回ってるなんて廻りの家にもわからないように、背広姿で出てくるわけだよ。他の連中に訊いたことはないけど、たいがい、ほかもそんなとこじゃないかな。やっぱり近所の目があるわけだよ。国鉄マンからゴミ屋になったっていうのは、やってる自分としては受け止めざるを得ない現実だから、自分で自分を納得させてやるしかないけれど、家族としては割り切れない思いがあるんだろう。それは否定できないからね。それにね、子供もオヤジの商売がって言われちゃうとね、ちょっとかわいそうだからね。でも、毎日同じ背広で来る訳にもいかないから、結構ね、お金かかるんだよ。背広って。国鉄のときだって、そんな恰好じゃ出勤してないからね。夏場はね、だから背広は暑いよ。でも、近所の手前、やめるわけにはいかないからね。ちゃーんと勤め人らしくしてないと、女房、子供がかわいそうだからね。こんな話、お兄さんはまだ若いから分かんないだろうけど、まあ、そのうち家族を持ったら分かるようになるかな」
元上野駅長の松本が振り返る。
「国鉄からJRになるとき、40万人いたのを半分に減らすってことになって。俺は送り出す側だった。東京都の清掃局に国鉄のOBがいた?いやね、その話はね、ほんとだよ。都にいった人もいる。地下鉄にいった人もいる。NTTにいったひともね、いっぱいいるよ。そうやって人を減らしたんだよ。でね、東京都に行った人でね、清掃のね、そういう仕事だって知らねえでいった人がいるんだなあ…」
松本の耳には、今昔の思い出が今日も甦っている。
「若くて優秀な奴がいっぱいいたんだよ。みんな優秀だったよ。だからね、国鉄改革が成功しましたって言ったって、俺は思うんだよ。最後は、そういう、去っていかざるを得なかった人達が幸せになって、初めて成功なんだってな。都の清掃ね…いっぱい行ったよ」 (敬称略)
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