シリーズ 昭和百景 「語られざる『戦後孤児』 アマゾンに渡った澤田美喜の希望達」
JR大磯駅―。駅前のロータリーとはいえ、どこか静謐な空気が漂う。バスやタクシーの往来はあるが、都心のようなせわしなさとは程遠い。
賑わいがあるとはいえないロータリーを挟んだ駅の正面に、銀色の看板が掛かっているのが見える。
エリザベス・サンダース・ホーム―。
日中でも、来訪客は多くない。孤児院だからであろう。
その孤児院が設立されたのは、終戦から三年後の昭和二十三年のこと。設立者は、澤田美喜というひとりの中年女性である。院の呼び名として冠されているエリザベス・サンダースは、澤田の趣旨に賛同して資金を提供したイギリス人女性の名だ。
終戦から三年後とはいえ、朝鮮戦争を契機とする戦争特需がもたらされるのは、ホーム設立からさらに二年後のこと。日本の戦後は朝鮮特需によってようやく飢餓から抜け出ることができたといわれるほど、当時はまだ食べることにさえ難しい時代だった。
誰もが苦しい最中に、三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎時代からの別荘があった大磯に、明治三十四年生まれの澤田は孤児院設立を決意し、奔走する。
澤田は、岩崎弥太郎の孫娘に当たる。外交官の夫と結婚し、四人の子供をもうけていた。夫に随行してロンドンやニューヨークでの海外生活を経て、戦後は日本に戻っていた。
占領軍による財閥解体の嵐が吹き荒れるなかでも、それなりの矜持を持ってしのいでいたであろう静かな日常を一転させた事件は、終戦から二年後に起きた。乗り合わせた列車のなかで、子供の死に遭遇したのだった。不幸にも亡くなった子供は、混血児であった。澤田はそこで、子供の母親と間違われたことをきっかけに、孤児、とりわけ進駐軍の関係者と日本人女性との間に産まれた混血児のケアと救済に乗り出することを決意する。
ホームを設立したのは、その事件の翌年である。
澤田は昭和五十五年に七十九歳で世を去るが、ホーム設立から三十年以上に亘り、多くの混血児を受け入れ、実に「二千人の母」と呼ばれた。
三菱財閥・岩崎弥太郎の係累としての華麗な血筋と外交官の妻としての立場から、ホームは十分な経営資源で満たされていたのだろうと思われがちである。だが、設立直後のホームは、混血児の存在が公然化し、社会問題化することを恐れる進駐軍や日本政府から有形無形の圧力を受けていた。終戦直後の日本は、両親や身寄りを戦禍で失った戦災孤児の対策に頭を悩めていた最中だった。声援どころか逆風にさらされながら、運営の寄付金を集め、基金を設立するためにと、澤田は海外にまで赴き、講演活動を重ねた。有閑マダムの優雅なボランティア活動といった趣とは異なる、自ら汗をかく後半生を送ったのだ。
最大の障壁は何よりも「世間の目」であった。見た目に明らかな、肌の色が異なる混血児に対しては、当時の日本社会はまだ理解と寛容さからはほど遠かった。さらには、ホームが受け入れた孤児達が、次のような複雑な運命をまとっていることも影響していたかもしれない。
加藤聡子(仮名)は、親しかった友人の身に起きたある事件のことが今でも忘れられなかった。
聡子もその友人も東京・立川の生まれで幼馴染でもあった。立川には戦前、戦中、日本軍の立川飛行場があったが、終戦と同時に接収され、立川にも進駐軍の兵士たちが大挙してやってきた。
現在の立川駅周辺は大規模な都市開発と区画整理が進み、聡子が住んでいた場所も、嫁いだ先の商店街も、道路を含めて跡形もない。
ただ、立川駅から近い柴崎という住所だけは、忘れずに覚えていた。自分が生まれ育った場所でもあったし、その後、聡子の友人がある事件に巻き込まれ、立川を離れて移り住んだ先の地名にも、どこか懐かしさがあったからだった。
「育ったところとたまたま同じ名前の駅があって、それでそこに住むことに決めたんだって」と教えられた、親友の引っ越した先は、東京・調布は京王線沿線の「柴崎駅」からわずかの場所だった。
立川で草履や傘などを売る家に嫁いだ聡子の親友は、夫が復員する前、夫の母親と二人で、店を切り盛りしていた。
商店が並んでいた目の前の道路は、飛行場にいくためだろう、「ジーアイ、ジーアイと呼んだアメリカの兵隊さんがジープに乗って行ったり来たりしていた」。
戦前から立川は軍需産業の町でもあった。飛行場のそばには、飛行機用の部品を造る企業や工場が多く、軍関係の匂いには馴染みがある。
とはいえ、体つきも言葉も異なる進駐軍兵士の雰囲気は、やはり日本軍や日本兵のそれともまた異なっていた。
「やっぱり、向こうさんは戦勝国民だから」
ジープの上から、町ゆく日本人に声をかける進駐軍兵士らは、どこか居丈高でもあり、自信に満ちているようにも映る。
戦後、彼ら進駐軍兵士は、地元住民との間で、やはり数多くの問題を引き起こした。決して表立っては語られない、数多くの強姦事件である。
「米兵に出会ったらすぐに奥に入れ、という年寄りさえ多かったけど、あたしはそんな怖い目に遭ったこともなかったし、それに、大勢のひとがいるところならば大丈夫だとも思ってた。彼女もきっと人の前ならば大丈夫だと思っていたんでしょうよ」(聡子)
ある夕方のことだった、店じまいの支度をしていたとき、親友はいきなり背中越しに、抱きかかえられてしまったという。
ジープに乗せられて連れていかれたのは、多摩川の河川敷だった。
聡子は後、彼女から打ち明けられたという。
「もう、あんなときはね、なにがなんだかわからないもんで。殺されるのかっていう恐怖だけでね、しかも、身体が大きいから、何をどうしたって逃げられないもんだって」
再び、立川まで連れ戻された彼女が、ようやく家にたどり着くと、夫の母は、その姿を見て、すべてを悟ったようだったが、何も言わなかったという。
「身体中が泥だらけだったらしいから、顔を見てわかったんでしょうね。それからなーんにも、訊かないし、言わないし。ただ、だまーっているだけなんだって。その頃、そういうのは、それこそいっぱいあったのよ。みんな、口には出さないけれど、連れてかれちゃうのはいっぱいあった。陰では、誰々がやられたらしい、なんていうことが伝わってくることがあったけど、あまりにそんな話が多すぎて、逆にね…」
言葉に出さなければ、おそらく本人だけの秘密、で終わる話であったかもしれない。だが、彼女に異変が起きた。
「できちゃったのよ。だんだん、おなかが大きくなってきて、で、亭主もいないでしょ。だから、みんな、回りはおかしいなあって思うでしょうよ」
産まれてきた子供は、黒い肌をしていた。
「どうしたって、黒いほうが強く出ちゃうのよ。だから、産まれてすぐに預けちゃったのよ」
エリザベス・サンダース・ホームだった。
聡子は、彼女から仔細に顛末を打ち明けられたという。
「澤田美喜がやってたとこね。名前も付く前に、すぐに預けちゃった。それから、夫が復員してきたから、よかったのよ。夫に知られる前に預けなきゃ大変なことになってたわよ。だから、子供が産まれたのを知っていたのは、夫の母親もだし、まあ、回りのひともみんなわかっていたでしょうしね。だから彼女は夫が帰ってきたらすぐ、どういうわけか店を閉めちゃって、それから調布の柴崎駅っていうところに越しちゃったのよ」
聡子によれば、転居していった後も、幼なじみだった彼女とは交流は続いたという。そんな彼女があるとき、こんな話をしたという。
「千鳥ヶ淵にフェヤモントホテルってあるでしょ。靖国神社のそばに」
現在、その跡地には高層マンションが建つが、千鳥ヶ淵は都内有数の桜の名所である。
「フェヤモントホテルで女給の仕事をしていたことがあったらしいの、彼女が。そうしたら、ひとり、若い女の人が働いてて、でも、黒かったんですって。すぐに混血だってわかったって。外国語が少しできたから、ホテルで働いていたんでしょうね」
イタリア大使館やインド大使館にも近く、また、麹町のイギリス大使館などからも至近のフェヤモントホテルは昭和二十六年にオープンした。占領軍肝いりの外国人客向けのホテルでもあり、多少でも英会話ができる者が重宝されていた。
「親しくなって、いろいろと訊いたら、その娘さんがエリザベスサンダースホームの出身だって言うんですって。それで、彼女はあれって、口には言わなかったらしいけど、自分の娘もそこに預けたから、気になったんでしょうね。仕事で親しくなって、いろいろと訊いたらね、自分が産んだ子供と同じくらいの歳だしね」
立川での事件の末に産み落とした赤児は女児だったのだ。
「でも、彼女がまだフェアモントホテルに勤めている間にね、その娘さんは辞めることになって、なんでも外国にって、ブラジルに行くとかなんとか言って辞めちゃったらしいの。それっきりだったんだって」
ホームで育ったという女性はまだ二十代前半で、若かった。
昭和三十七年、ホームを設立した澤田は、ブラジルのアマゾン川流域で開拓事業に乗り出していた。澤田の三男で、戦死した息子の洗礼名をとり、そこを「聖ステパノ農場」と名付けた。
開拓という名にふさわしく、まさしく未開の森林を切り開くところから、澤田のブラジル事業は始まった。
すでに還暦を過ぎていた澤田の手では到底無理な作業である。なおも蔑視の視線が強い日本を離れて、ホームで育った澤田の〝子供たち〟が開拓を担うことになった。
澤田は、ホームを設立した直後から、いずれは子供たちを海外で、という心づもりがあったという。単なる思いつきではなく、数度に及ぶ現地での視察や調査を経て、大西洋に面した商港都市のベレンから川の支流を内陸に遡ったトメアスという源流域に三百二十五ヘクタールの土地を確保したのだ。東京ドームの敷地面積が約七十個収まる広さである。
周辺には戦前に移民した日系人が経営する農場などもあるが、澤田が孤児たちの農場にと確保した場所はあくまでも森林である。徒手空拳で経験を積んでいく作業となった。
先発隊として男性五人が現地に渡り、まずは自分たちの住宅造りから始め、徐々に農地を広げていく。最初に植えたのはピメンタと呼ばれる「胡椒の木」だった。
原生林を切り開くブルドーザーの音の後ろに、ピメンタを植林する、青年に成長した孤児たちがいた。
澤田は彼ら先発隊による地盤づくりを固めたうえで、徐々にホーム出身者たちによる渡航と陣容を拡大させようとしていた。
そのアマゾンに行くのだと言って、フェアモントホテルで出会ったホーム出身の娘は去って行った。
「でも、やっぱり混血だから、色は黒かったけど、かわいらしい顔をしていたのね」
そう言って、聡子は言葉に詰まった。
「なんだかね、どこかで気付いたらしいのね、自分の娘じゃないかってね。でも、相手もそれを知らないしね、自分から訊くわけにもいかなかったらしいのね。でもね、彼女はきっと自分の娘に違いないってね。産まれたのはどこなのって訊いたらね、こう答えたんですって。立川って。だからね、間違いないって…」
その親友の消息を婉曲に尋ねたが、聡子は押し黙ったきり、決して、その後の行方を教えようとはしなかった。
「立川の飛行場の前にも、夕方になると、ずらーっと、パンパン(進駐軍兵士相手の街娼)が立ってて、子供を産んだなんて知られると、そういうことをしてたと言われたりね」
聡子の親友のような女性は、子を宿した経緯に加えて、子を産んだ後もそうした世間の蔑視にさらされた。引っ越したのもそれが理由だったという。
まもなく九十歳を迎えるのだという聡子と出会ったのは、立川と調布の間にある小金井を起点に、多摩川へと注ぐ川の名前を取った野川公園のベンチだった。かつて米軍のゴルフ場だったというその公園の歴史から、戦後、やはり接収された調布飛行場へと話が移り、そして立川飛行場へと、話は飛んだ。
聡子に、「ご友人の女性も、まさかホテルで同じ女給として再開するとは夢にも思わなかったでしょうけど、でも、お会いできてよかったでしょうね。一生会えないよりは、わずかの間でも、実の娘の元気そうに成長した姿を見られて」と声をかけた。
すると聡子は、それには答えずに、うっすらと涙をにじませた目をこすり、杖をついたまま去っていった。
帰路、各駅停車に乗り、新宿方面に向かっていると、「柴崎」駅を告げる車内アナウンスに思わず顔を上げた。聡子が、立川の友人が越したと教えた場所は、野川公園から数駅の距離だった。瞬間、ある思いがめぐった。親友の体験というのは、もしかして聡子自身の?と。
澤田が築いた混血児たちを受け入れたアマゾンの農場は、ブラジル政府の方針で査証の取得が難しくなったため、昭和五十年に閉鎖された。聡子はおそらく、それを知らぬままだろう。娘の行方とともに。
JR大磯駅前には現在も同ホームと、そして澤田美喜記念館があります。その活動と、澤田の志を継ぐ活動にご関心のある方はぜひ一度。ネットにはない、SNSやネット世界でバズっていない話題や場所にも、人間の希望と深みはそこここにあるものかと存じます。歴史を訪ねる、感じる旅とは、ネットの情報を離れて、ご自身で感じること、五感を大切にする旅路でもあるのかな、とも思えます。https://www.elizabeth-sh.jp/memorialmuseum/# (敬称略)