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感情は不要か?

怒りの炎
本当に良くないのだろうか?

今朝、道路を歩いていると1台の車がオレの前を遮るようにカットイン気味に走行して右折していった。

そのことに凄く気分が乱れた。
たまたま今日が
お寺で坐禅会だったので終わった後、お坊様に相談してみた。

お話を聴く中で
負の感情等を煩悩と云うそうだが

はたして煩悩は悪か?と…
(今朝の出来事で)『怒ったり腹を立てる事が何か問題ですか?』と問われた。

煩悩即菩提という言葉がある
煩悩=負の感情も表すが、同時に仏の智慧へのヒントでもあるのだと仰った。

更にお坊様はロウソクを持ち出し火を着け
怒りの火種に例える。

負の感情、怒りなどは不要と消せば同時に智慧も消えてしまう。
そうすれば悟りへの道も消えて閉ざされてしまう。

世の中に不要なものなどない。
怒りがそうなら存在してない筈だ。

自然に湧き上がる感情をコントロールしようとか掻き消そうとか、そういうことは必要ないのだと。

怒りの火を消す
怒ることをやめるのではなく『知る』ということと『観察』するということだとご教授賜った。

小さいことでイライラする。
小さいことは人それぞれ違う。

そして大小というが、例えば時計。
小さいこと=時計を構成する小さな1つのネジ…
無ければ時計は動かない。

要は大きいも小さいもなく役割はあるとて機能の違いであり価値は同じ

小さいことでイライラする。
しかしそれも自分の大切な価値観なのだと思った。

やはりそうだとしたらやはり大切な事は
『知る』こと
ナゼこういう事に腹が立つのか…
そして燃え広がらないように覆う。

執着に関しても同じようなこと。
気持ちを留め置く。要は『摩擦』…

無ければ滑り落ちる。
引き寄せる事もない。

思えば執着心は人思いのネガティブな
側面でもあるのでは無いだろうか。

とても情熱的や世話焼き、尽くす人ほど陥りやすい気もする。

問題は執着することより度が過ぎること
無理が生じて『丁度いい』を逸脱してしまった時…

やはり心の在り方は大切だと
改めて感情も受け取り方使い方だと思った。

そして今朝の不愉快な体験だが『この程度』で良かったと。同時に自分を見つめ直すチャンスだったと。

どこかで同じようなこと。
恐らく運転手さんと同じ様に知らずか知ってか誰かの気分を害するようなことをしてしまっているのだろう。と考えた。

※あくまでこの話はお坊様より戴いた言葉を聴きながら私が内容を解釈して掲載したものです。実際の仏様の教えとは少し相違がある可能性もございます。

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