ありたい自分で死んでいけるか
放浪の末にオレゴン州ポートランドにたどり着き、住み始めて3年目に突入。映画AKIRAのように荒れるアメリカの情勢の中、日々生きる希望をポートランドでコツコツ集めている。住む街のいいところを見つけることは、わたしの人生のいいところを見つけること。1988年生まれ、鎌倉育ち。
クリスマスは、義母と、彼女の兄にあたる叔父さんに会いに、ベンドという街まで行ってきた。二人は叔父さんの家で一緒に暮らしている。叔父さんは去年の年末に、ステージ4の肝臓がんと診断された。その後しばらくは闘病生活を送っていたけれど、今は緩和ケアに切り替えて日々を過ごしている。今年のクリスマスは、彼にとっては多分最後のクリスマスだ。
ベンドはオレゴン州のちょうど真ん中に位置していて、オレゴン州の北西にあるポートランドからは、車で片道4時間かかる。けっこう遠いのと、叔父さんはちょっとしたことですぐ怒ったり、わたしの観点からすると問題発言が多いのが気になって、彼の末期がんが分かってからもわたしはベンドまで積極的に行こうとすることはなかった。そんな自分に罪悪感を持つこともあった。
パートナーの母親のお兄さん、という、近いのか遠いのかよくわからない間柄だから、別に罪悪感を持たなくてもいいんじゃないかな、とも思うけれど、子どものいない叔父さんは、パートナーとわたしの訪問をいつも喜んでくれるから、やはりときどき心が痛んだ。ともかく、クリスマスにはベンドに行こうと数か月前から計画していた。
10か月ぶりに会った叔父さん(今年の2月、彼の誕生日と抗がん剤治療の開始をお祝いするためにベンドに訪れたきりだ)は、すっかり弱々しくなっていた。わたしたちの滞在中も、ベッドやソファに横になって休んでいることがほとんどだった。ごはんもほとんど食べられないし、外に出かけることもない。もう、ささいなことでカッとなったり、嫌味を口にしたり、他者をコケにする体力は残っていなさそうだった。
彼は自分の死を受け入れていた。自分でそう語っていた。最初は受け入れられなかった、でも今は受け入れている、と。そんな彼は残された時間で、ありたい自分でいつづけようとしているように見えた。電話や光熱費などの支払いをきちんと済ませる。わたしたちにクリスマスギフトをわたす。(しょっちゅう仲たがいしている)きょうだいたちと電話する。友人たちと時間をすごす。もうほとんど残されていない体力で、それを一生懸命こなしている彼の姿をわたしは目撃した。
多分彼は、ずっと、「自分の世話は自分でする、他者には善き存在である」そんな自分でいたいと思って生きてきたんじゃないかな、と思った。最後にはそれが残って、最後にはそれが人柄として光り輝いているように感じた。
本人が病気で苦しんでいるのに、こんなことを思ってはいけないとも思うのだが、でも、今の彼のほうが、わたしは一緒に時間を過ごしやすいと感じた。痛み止めで飲んでいるモルヒネの副作用だろうか、ときどき彼の意識がぼんやりして、ここではないどこかへ遊びに行っている時間があった。まるで、彼は子どもに戻ったかのように、計算あそびをしてニコニコしていた。そして、こちらに意識の焦点があったときは、わたしたちは彼と、死の受容について語り合った。わたしはいくつかのくだらないジョークを言って彼を笑わせることができた。
このブログ記事をどんな風に終わらせたらいいのか正直わからない。人生にはたくさんむずかしいことがあり、何をどう考えたらいいのか、どうしたら心折れずに乗り越えられるのか、さっぱりわからないことだらけだ。とりあえず死ぬときには、何かを大切にして生きたと思える自分でありたいと思う。
PS.末期がんの診断、通院、そして緩和ケアまですべて文句を言わずに付き添っている義母に、あらためて尊敬の念をおぼえた。