「バービー」を見に行ったという話(ネタバレあり

 時期的には夏休みだと言うので様々な映画が公開、上映されている。「バービー」もまたそのひとつだろう。

 そもそものバービーが「女児向け玩具」なわけで、それの映画化である「バービー」が夏休み時期に公開されるのも宜なるかな。

 こういう話をするのもあれだが、私はあまり映画を積極的に見るタイプではない。ましてや、「話題の」映画なら尚更である。

 付き合いだったり、あるいは家族で見に行く方もおられよう。あいにく私には人付き合いも「家族」もいない。だからか「話題の」映画こそ、ますます見に行かなくなっている。

「バービー」もまたシネコンでやるような映画だ。なにより上映直前に「悪い意味で」話題になっている。

 とかく普段ならあまり見る気の起こらない映画ではあるが、なら何故見に行ったのか。

 それは私が「人形が好き」だからである。

 なんで人形が好きなのかという話をすると、長い前置きが余計長くなってしまう。なのでとっとと本題に入ろう。

https://wwws.warnerbros.co.jp/barbie/

 まずは冒頭。リアルワールド同様、バービーランドも朝を迎える。

 主人公である「定番(原語ではTypical)」バービーの目覚めから始まるのだが、その寝室というのが如何にも「おもちゃ」っぽい。

 ここでかかるオープニングテーマでも「ピンク」を連呼していることからわかるように、当然寝室もピンク色だ。それがさらにおもちゃっぽく見せている。
 目を覚ましたバービーはシャワーを浴びるのだが、おもちゃなので当然水は出ない。

 とにかくバービーワールドは「おもちゃ」であるため、全てがプラスチック製なのだ。

 絵面としてはだいぶシュールなのであるが、そこは流石ハリウッド映画というかなんというか。チープにもならず、自然に見せているのは流石としか言いようがない。

 主演であるマーゴット・ロビーの演技もなかなかで、それこそ「人形らしく」動くので流石としか言いようがない。

 バービーが「死」を意識した途端つま先立ちだったのがベタ足になる、というシーンがある。

 私がいちばん感動をしたのがそこで、正確に言うと「バービーは常につま先立ちをしている」というところで「バービーを見に行かなきゃ」となったのである。

 一応説明しておくと、バービーの靴はヒールになっており、それに合わせてバービーの足はつま先立ちになっている。

 バービーがベタ足になった途端、周りがショックを受けたのは、ある意味では着せ替え人形としてのアイデンティティに関わることだったからであろう。

 続いて、ベタ足を直すためにリアルワールドに向かったバービー。

 リアルワールドでは人間とバービーの関係が描かれている。
(主題としては「フェミニズム」なのだろうが、他の方が上手く言語化してくれるだろうからここでは必要最低限に留める)

「人間とおもちゃの話」というと、まず思い浮かぶのが「トイ・ストーリー」シリーズだろう。(私がそれしか知らないというのは否めないが)

「トイ・ストーリー」はあくまでも「子供」との関係が中心ではあるが、「バービー」の場合、子供だけではなく、成長した大人、ないし母親にもフォーカスが当たっている。

 それはやはりバービーが「女児向け玩具」として作られたという歴史があるからであろう。

 バービーがリアルワールドで出会った少女であるサーシャから「女を型に押し込めたファシスト」と痛罵されてしまうシーンがあるのだが、これもまたバービーが「そのように扱われた」という歴史があったからであろう。

 あいにく日本においてはバービーよりもリカちゃんの方が人気があるためか、この辺りはピンと来ない人が多いような気がする。
(ここではあくまでもバービーの話であって、日本には「女らしさの押しつけはない」という話ではないということは一応言っておく)

 あえてこういうシーンを入れたのは「バービーが女らしさの押しつけになってしまった」マテル社なりの反省であろう。

 とはいえ、バービーそれ自体が「資本主義」と切っても切れない人形であることは否めない。

 それにバリュエーションがあるとはいえ、基本的にバービーは「若くて美しい人形」である。なぜなら、そうでないと「売れない」からだ。

「美しさ」に関しては、悲観にくれたバービーが「美しくない」と言った時、「マーゴット・ロビーがそれを言うと説得力がない」というツッコミが入るシーンがあるので、そこに関しては承知の上なのであろうが。

 ここで引っかかった点があったのでひとつ。

 バービーの開発に携わるグロリアが「普通の」バービーを作りたいというシーンがある。

 原語ではordinaryなのでニュアンスが違うのかもしれない。けれど日本語においては「普通」というと、それこそサーシャが言うような「ファシスト」的な意味になってしまうだろうに。

 訳語に「ポリコレ」だの「メンヘラ」だのといったネットスラングを用いているのであるから(これに関してはもうちょっと適切な言葉があったろうと思うが)だからこそ「普通」がどういう使われ方をしているのか分かりそうなものだが。

 ordinaryを調べたら「平凡」と出てきたので、ここは「平凡なバービー」とするべきだったと思う。

 あと、もうひとつ。これは私が引っかかったというよりも、ショックを受けた人がいたであろうということを念頭に置いてだが。

 これは冒頭の冒頭、オープニングシーンの話だが、赤ちゃん人形で遊んでいた女の子の前に、突如巨大なバービーが現れる。
 その時、女の子たちは赤ちゃん人形を破壊し、バービーに飛びつくのである。

 これに関してはかなりショッキングなシーンであると言われたら、私としては異論はないし、批判はあっていいだろう。

 私見としては「人形を大事に扱う子もいるけど、同時に乱暴に扱う子もいる。是非はともかく、後者が『悪者として描かれていない』ことに意義があるのではないか」だが。

 もっとも「新しいものを買わせるために、古いものを唾棄すべきものとする」という商業主義とも取れなくはないが。

 更に言うと「赤ちゃん人形で遊んでいた少女」は「新しいものに飛びつく消費者」とも取れるわけで。

「新しくて魅力的なもの」としてバービーを売り込めば手にしている赤ちゃん人形が「古くて魅力的ではないもの」に様変わり、というわけだ。
 なかなか資本主義のグロテスクさと滑稽さがよく現れたシーンではないか。

 さておき、オープニングのシーンは「2001年宇宙の旅」のオマージュとの事。巨大バービーはさながらモノリスといったところか。

 なにゆえオマージュの話を始めたのかというと、後半、バービーの生みの親であるルース・ハンドラーと対面するシーンがある。
そこでも、2001年宇宙の旅のオマージュがあったからである。

 どうして後半のシーンはわかったのに、オープニングのシーンはそれと分からなかったのか。
 それは「2001年宇宙の旅を見たには見たが、それを見たというのがBSプレミアムで、多分途中から見たから」という説が濃厚だからであろう。

 閑話休題。
「2001年宇宙の旅」をオマージュしたのは、人類の進化を描いた作品であり、オマージュを通して、バービーの進化を表現したかったということか。

 バービーは最終的に「バーバラになること」を選んだわけだが、これはモノが人間になる「トランスヒューマニズム」であるまいか、というのは穿ちすぎか。

 とはいえ、バービーはマテル社の「商品」である以上、バービーのままでは資本主義批判もままならぬだろう。

 本当の意味で社会を――現在の、様々な格差を生み出している資本主義――を「変えられる」のは、バーバラでないと駄目なのだ、というマテル社からのエクスキューズではあるまいか。

 もっとも「資本主義を倒せ」というメッセージでさえ消費されている、というのが現状であるし、それで金儲けとなったら本末転倒にも程がある。

 だからといって「バービーがバーバラになったところで何も変わらない」では、あまりにも悲しすぎるだろう。
 せめて「変わること」を望むだけでも悪くはないのではないか。たとえ、欺瞞でしかないにしても。

 グダグダと語ってはいるが「バービー」は娯楽映画として面白かったのでオススメ、と言いたいところだが、だからこそバーベンハイマーミームの件は残念だと言うしかない。

 ちなみにバービーの彼氏である「ケン」にもフォーカスが当たっている。

 見終わったあと映画館のグッズ売り場によったのだが、バービーコーナーにはケンのみ売られていた。しかも3種類。
 私の見た映画館では、製作者がバービーを通して伝えたかったことがきちんと伝わっていたようだ。

 みんな、ケンを大事にしよう!

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