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インプットもアウトプットも日常に溢れている
インプットとアウトプットの黄金比率は3:7。
精神科医の樺沢紫苑氏は実験や研究の結果からそう定義しています。
いかにしてアウトプットの場を設けることができるか。
アウトプットを増やした時に起こるのが、インプットの枯渇です。
アウトプットするためには、自分自身に十分な量の元手がなければならないからです。
私は以前、アウトプットを増やそうとした時に、この「インプットの枯渇」に喘ぎました。
アウトを増やそうとした時に、黄金比率にもあるように、3のインプットは必要な存在なのです。
しかし、日常レベルで考えてインプットのない生活というのは存在するでしょうか。
そんなわけはないはずです。
必ず人は、毎日の中でインプットがあります。それをインプットとして認識しているかどうかは別として。
例えば、先日、自分の息子とのやりとりに以下のようなことがありました。
休日のランチ。
この日はマクドナルドになりました。
大好きなポテトにハンバーガー。
心優しいことに、3歳の息子は少し食べたところで、ポテトを一本、妻に分けてくれていました。
「ママ、あげるよ。」
心温まる場面です。私も妻も大いに喜びました。
「うれしいねぇ。ありがとうねぇ。」
しばらくして、おなかいっぱいになってしまいましたが、まだハンバーガーが残っています。
そこで、息子は先ほどのことを思い出したのでしょう。嬉しそうに
「ママ、半分あげるよ。」
と言いました。
冗談かなと思いましたが、どうやら息子的にはこれは冗談で言っているのでは無く、本気で言っていることでした。
夜、その日あったことを思い出して会話をしている時に、3歳の息子がこの時のことを語ったのです。
息子は、
「ママにポテトあげて(ぼく)えらかったねぇ」と言った後に続けて、
「ハンバーガーも半分あげたね。えらかったねぇ」
と言いました。
私と妻はそれを聞いて和やかに爆笑していたのでした。
私は妻と爆笑したわけですが、息子からすれば、何がおかしいのかわからないという感じでした。
実際、どちらも「あげる」です。
しかし、意味は全く異なります。
「自分が欲しいと思っているものを一つ分けること」と「自分がもういらないと思っているものを分けること」。
行動は同じです。
違うのはそれを行う心。
この違いがわかるようになっていくことが成長なのだと思うのです。
その時の様子と、その様子を受けて私が思ったことを、次の日、自分のクラスの一年生に話しました。
すると、大爆笑していました。
つまり、一年生からすると、その違いが分かるということです。
3歳にはわからないけど、7歳には分かる。
この4歳の差のうちに心がそれを理解できるようになるわけです。
さて、ここまでのエピソードの中に、インプットとアウトプットがあります。
日常の会話がそもそもインプットです。
これをクラスの子どもたちに話すというのがアウトプットです。
日常にインプットもアウトプットも根ざします。
それをインプットと捉えているか、アウトプットと捉えているかの違いです。
インプットというと、本やセミナーなどの形式的な学習のイメージが強いですが、私たちが人と関わり合って生きている以上、全てのことがインプットになりえます。
そして、それはどこかでアウトプットにもなりえると思うのです。