久しぶりに読書感想文を書いた
ネットの企画に応募するために、久しぶりに読書感想文を書いた。山之口貘の「あとの祭り」という短い文章が課題図書で、感想文も800字以内というハードルの低い企画。最近文章を書くようになった自分にとって、ちょうどいい企画かなと思い、応募してみることにした。
とはいえ、読書感想文の書き方なんて覚えてない。最後に書いたのは小学生の時じゃないか?何となく「この本の内容はこうでした。私はこう思いました。」みたいな内容を書けばいいんだろうけど、もっと具体的なイメージが欲しい。
そう思って色々と調べたり読んだりしてみた。すると、感想文は大きく2つのスタイルに分けられるように思った。1つはモノローグ(自分語り)、もう1つはレビュー(批評)だ。
よくある読書感想文はモノローグの方。「この本を読んで、私はこう思いました」という感想文がそれ。一方で「この人物は怠惰だと思う」のような本に書かれていることを考察する文章になるとレビュー的な文章になる。
とはいっても、読書感想文は、本を読んで感想を書く(レビューしてモノローグする)ものなので、どちらの要素も少なからず入っている。モノローグとレビューのブレンド具合が、それぞれごとに異なっており、完全にモノローグ的または完全にレビュー的な感想文は、多分ないと思う。
また、ネットで読書感想文をいくつか読んでいくと、自分が好きな感想文がなんとなく分かってきた。あまり読書感想文然としていない方がおしゃれでかっこいい。例えば「この本では〜」とか「この本の作者は〜」が書かれていない方がかっこいい。そこは感想文を書くうえでこだわりたいポイントになった。
さて、課題図書を読んでみる。率直な感想は、読みにくい、だった。難しい言葉がないのに、一文が長いからか平仮名が多いからか、それとも単に自分の読書経験が少ないからか。なぜか読みにくく感じられた。
文体について思ったことを感想文にしてみようか?いや、それだとたぶん、批評的な文章になってしまう。批評はやりたくない。普段から、SNSで流れてくる批評にうんざりしている。それを自分が書くのは抵抗がある。
そこで一旦、この課題図書が評価されてるポイントを考えてみることにした。青空文庫に乗っているということは、この作品を評価した人が一定数いるはず。良いところを探して、そこを軸に書いてみようと思った。
すると、単に日常を書いただけのように見えていた文章が、ミステリーじみた文章に見えてきた。課題図書の「あとの祭り」は、終盤に展開がある。とはいえ、結末までは書かれてないので、自分なりにその先の展開を予想して書いてみた。すると、自分語りとも批評ともいえない、小説的な感想文になった。
出来上がったものを読み返しても、あんまりこういう感想文はない気がする。こんな感じでいいのか?とは思うけど、まあダメということはないだろう。少なくとも、小学生の時に書いた文章よりはマシなはず。この文章を先生が評価してくれるかはわからないけど。
寄稿した感想文↓
無駄なあがき?
思わぬことが起きようとしている。ぞわぞわっとした感覚が、冬にお風呂に入った時みたいに、じんわりとそれでいて早いスピードで身体を満たしていく。
朝起きたら家に泥棒が入っていて、女房が夜どしんという音を聞いている。自分は寝ていたものの、普段は夜中仕事をしているので、泥棒だと疑われそうだ。無実を証明するのは可能か?危機感にあわせて頭がヴァーッと高速で回り始める。走馬灯ってこんな感じなのかな。
主張できることはなんだろう。畳の上にある、地下足袋の跡は論拠になるかもしれない。家の中に跡があるということは、犯人は外から入ってきたということ。自分が盗みを働くなら外から入る必要はない。また、犯行が夜なら跡は朝まで残ってないだろうし、自分がさっきまで寝ていたのは娘と女房が確認している。
盗みをしていないことはとりあえず主張できそうだ。でも、これだけで無実を証明できるか?自分に演技力はない。必死に主張するしかないが、その必死さが裏目に出ないか?自分の犯行ではないと示すために足袋の跡を偽装したと、かえって疑われたりしないか?
あ、。というか、女房が自分をはめようとしてる可能性もあるのか?「明け方やられたんだね」という自分の発言に対する、女房の「さあ」。どしんという音について、自分が足をばたつかせたと思った、という話の後に「あのときの音が、きっとそうだったんでしょうね。」の発言。まるで、その時間動けたのは自分だけ、とでも言うかのような…。
考えすぎかな。こんなの考えてもしょうがないか。というか逆に、何をしても結局犯人だと疑われてしまうかも。あ、この作品のタイトル、「あとの祭り」。
参加した企画について
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感想文を読んでのコメントもいただいてます。