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私は、生かされてたまるか。生きてやる。

3/15 18:00開演 舞台 粛々と運針

私は秋ぶりに舞台の観劇にきた。

舞台が好きだと気づいて2年弱、
今日も日ごろから応援している加藤シゲアキ さんの主演舞台 粛々と運針 を観劇しにきた。
彼の主演舞台は1年ぶり二度目だった。

座席に着くと目に入る舞台の構造はたくさんの椅子と上から垂らされた数多くの紐だけ、 
この紐は何を表したいんだろうか。
命か、それとも、人生か、
好きな言葉に
点と点が線になるまで という言葉があるけれどもそれと関係はあるのだろうか。
そういえば、ポスターも赤いニットを着ていてその先端は解けていたな。


紐にはライトら時計、家具などが括り付けられていて、モダンなおじいちゃんの部屋を連想させる。

いままで見てきたプロの舞台はどれにも大きな回転装置(たくさんのシーンを表現させるため)があったが、今回は全く無さそう。

これが会話劇の特徴なのか。

終演後、手は震えて、涙を拭いた証としてアイシャドウのラメが光っていた。


たった2時間。されど2時間。


まるで卒業式後のような別れと出会いを同時に実感した。

内容は生と死に関する壁にぶち当たった2人が3組、最初はそれぞれの関心ごとを2人で会話していく形なのだが、クライマックスになると交わりひとつの大きなテーマである命について議論をしていくという展開であった。

末期癌の母をもつ兄弟は尊厳死のあり方について、死とはどこからが死であり本人の望みと家族のエゴの間で葛藤する。

できるだけ長生きしてほしいと願う長男。
目の前にある幸せこそが生きることの全てであり、延命治療の末苦しみながら死ぬことは生きることでは無いと母の尊厳死に前向きな弟。

憧れと共に自分を、自分の生き方を大切に生きていきたい妻と
子供は作らない予定だったが、やはり子供を持ちたい夫。

桜について語るおばさんと少女。

彼らにはそれぞれの生き方があって、みんな葛藤と共に生きている。

生きることは尊いこと。
しかし、意識のない存在としての生は生きることなのか。
子供のため仕事を辞めて人のために生きていくことが生きるということなのか。
それらは生かされていることなのではないのか。

生き方。在り方。
自分自身と周りとの関係性

そんな今ここにいる本質を問われる作品であった。

ここから先に書いていく感想は個人的なものであって、私の理想の生き方を基準に是非を決めていくため他の人とは別の内容になる。
(舞台などのエンタメはそれを前提に作られているものも多くあり、それでいいと思って書いてはいるのだが、念のため。)

今回の舞台を観劇して涙を流した。と書いたが、具体的に言うと
「父親という役割を果たしたいんだ。誰かにとってただ一人、なくてはならない存在として認められたいんだ。」(意訳)というセリフを聞いた時だ。

正直びっくりした。

泣いた理由は観劇理由である加藤シゲアキ さんのセリフではなく、自分のエゴで妻に出産を迫る夫のセリフだった。

さらには妊娠という自分が将来出会うかもしれないライフイベントではなく男性目線?のセリフに強く心動かされたのだ。

それ以前にこの舞台は全く好きな俳優の舞台なんてことを観劇中に思わせなかったし、いい意味で一切カッコいいなんて思わなかった。というか焦ったさを感じた。

私の父親は私を愛してくれている。
そして、生きる理由としてくれている。

それは今まで身をもって感じているし、口癖のように「娘たちのために働いてるんだ。」
と言ってくる。

今まではそれを私がいなければ、はやく自立して仕事の手を抜けるようにしてあげなければ。
と考えていた。

でも、そんなの娘のエゴだったのかもしれない。
父にとっては私達の存在が生きがいで生きる理由なのではないか。

そんなことに今更気づかされた。

そんな父は最近私達に死をちらつかせる。
パパが死んだら とか もういつ死んでもいいや とか。
まだ成人まえの娘からしたらそんな言葉辛くて聞けないよ。

でもね、きっと、もう十分なくらい幸せなんでしょ。思い残すことないくらい満たされてるんでしょ。

それなら十分なのかもしれない。
そう思わせてくれた。


作品では生と死を桜で表現していて、
それを語る2人は中絶を迷う夫婦の娘と尊厳死をするか揉める兄弟の母だということがさらに粋な演出である。

桜。

連想させるのは春。
出会いと別れの季節。

娘は生まれてくるのか、母親はどう死ぬのか。

「きれいに散りたい」
「枯れる前に伐採された方が...」

私も苦しむ姿は見せたくないし、見たくもない。
しかし、それは延命措置をしないことであり生の時間を減らすことを意味する。

できることなら元気で長生きが理想だけどもそうはいかないし、

時が止まればいいのに。

と、ここで舞台最初のセリフが伏線だったことに気がついた。

「あの振り子時計はうるさかったからならないようにしたよ。」と41歳フリーター長男は言った。

時計、さらには秒針がこの物語のキーであることは舞台の題名である 粛々と運針 からも容易なわけで、

ではこのセリフは何を表しているのかというと、長男の成長が止まっている(止めている)こととリンクさせているのではないか。

20年以上同じ所でアルバイトをし続けている彼。
つまりは針を進めてはいないのではないか。

そう考察した。

あとやはり読み解いていきたいのはおばさんと少女が語る桜のセリフの意味と終盤で桜が散った演出の意味である。
これはできるのであればもう一回舞台を見て彼ら(おばさんと少女)の存在が母と生まれてくる予定の娘ということを前提に考えたいと思う今この頃。
今できる限りの考察でいくと桜=春 春の儚さ 寂しく冬を越える桜の樹 花びらの清掃会社の話は大切にさせる時期の示唆なのか?
だとしたら清掃されなくなった桜の花びらは社会人のようなもの?

それと「桜の木の下にはたくさんの命が埋まってるんだよ」ってセリフは刺さったな、うまく生きるにはそれなりの代償が必要ってことだよね。

彼らは刺繍を針で縫っていた。粛々と運針をしていた。 衣装もピンクだったし、そこの、つながりは大きいのだろう。


生きるのか、生かされるのか

どっちがしあわせなのか。

これは私の人生をかけて考える議題になりそうだ。


ああ、私も精一杯生きないと。
いつか綺麗に散れるように。

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