デザインが敗北するか、ステレオタイプを再生産するか
デザインや表現について、あるいはステレオタイプやマイノリティについて、考えたことがある人は大概すでにたどりついているんじゃないかと思うけど。
どちらもとても大切なのに、限りなく二律背反な性質を持っている。
経済か、公衆衛生か、なここのところの現状ではないけれど。
どちらかが圧倒的に正しくて必要で最優先でもう一方を切り捨てていいというわけにいかないのがこの世界のしんどいところだよなぁと思ったりする。
「デザインの敗北」
デザインというのは、「説明しなくても伝わる」「ぱっと見でわかりやすい」「考えなくても意図したとおりに使える」ことが命である。
いや、見た目の美しさとか、カラーリングだとか、そういうほうにこだわりたいかたもいらっしゃるとは思うが、職業デザイナー的な人たちは口をそろえて、「色合いとかじゃなくて、機能的なデザインの話」と言っている気がする。
直接お会いしたわけではなく、私の目に留まったものなので、バイアスがかかっているかもしれないが。
もちろん色合いやスタイリッシュさと、機能性の両立も難しい。
それがバッティングした結果、機能性が損なわれ、現場の人間が後から修正をかけたがゆえにスタイリッシュさなども損なわれることを、「デザインの敗北」と呼ぶ。
「デザインの敗北」というネーミングのよさと、その優位性(完全なる後出しじゃんけんが可能で、かつ失敗していると決めつけられる)からか、ネットの民に好まれて定期的にバズるネタでもある。
ちょっと棘のある言い方をしすぎただろうか。そんなに穿った見方をしなければ、ただただおもしろい事例集なのは事実だ。昔出版された、「ゆかいな誤変換」シリーズとかと同じようなおもしろさがある。誰かが仕事で作ったものだということを除けば。
例えばこちら。
Togetterにはまとめが35件もあるらしい。
デザインの敗北だろこれ、と思うものの写真を集めたりするのはわりとおもしろいし、街中でもそういう意識で周りを見るようになるからインプットとしてはおすすめ。
たしか、デザインの敗北だったか、意味をなさない看板にフォーカスしていたか、そういった写真集も出版されていたと記憶しているが、ちょっと今思い出せない。
特に「伝わらない」どころじゃなく、「設計ミス」レベルのものに出会えた時は一周回って嬉しくなってしまう。
トイレの個室で便座に引っかかってドアが閉まらない、とか、便座に座ったままだとペーパーホルダーに手が届かない、とか、幼児を座らせておくイスの真横に緊急呼び出しやドアを開けるボタンがあり、しかも便座からは遠いので防げない、とか。なんでトイレネタばっかりなんだろう。
ただ、どんなものであれプロのデザイナーさんがクライアントに発注を受けて作っていることが大半だから、敬意を欠く行いは避けるべきだ。
デザイナーが突っ走ったというよりは、クライアントがわかってなくて無理やりリテイクしたりしたんじゃないかと邪推してしまうが、それもまた余計なお世話だ。
なんらかの意図があったかもしれないし、自分がターゲットではなかっただけかもしれない。
こういうことにも気を付けるべきなんだなーとか、これはこういう意図とバッティングしちゃったんだろうなーとか、失敗例から想像して自分の糧にするのに役立てるのがいいと思う。
とはいえ、とはいえだ、自動ドアの「開く」ボタンがありそうな位置に非常ボタンを設置するのはどういう経緯があったのかまったく想像がつかない。
は?と思ったかたは、さっき紹介したnoteに載っているのでぜひご覧ください。マジでわからない。
ローソンプライベートブランドへの私見
スタイリッシュさとの兼ね合いでいうと、昨今話題になっているのが、ローソンプライベートブランドの件である。
あんまりタイムリーな話題に触れることはしないのだが(時間が経ってからのほうが全貌が見えるから)、すこしだけ私見を述べさせていただくと、
・視認性が悪いのは事実
・購入時のみならず、品出し、家でも間違える可能性大
・全国、24時間、老若男女、3大コンビニエンスストア、という背景からして、インスタグラムで流行るような層のみをターゲットとしたブランディングはかなり危険な賭けではないのか
・間違って買ったんだけど!と怒られるのは現場の店員である
・品出しがやりづらくなるのも現場の店員である
・しかもコンビニのアルバイトには留学生なども多い(個人的な観測ではローソンは特に多い)
・おしゃれでかわいい、手土産にしたくなる、という意図はわかる
・でも間違えてしまった時のマイナス感情を補って余りあるほどか?
・おしゃれなブランディングとしては、ローソンはすでにナチュラルローソンを持っている。もしナチュラルローソンが著しく成功しており、全国のローソンをナチュラルローソン化してしまおうという目論見であれば、ナチュラルローソンのデザインを利用すればよかったのでは。
・どちらかといえば、ナチュラルローソンとふつうのローソンをすみわけさせているものと思っていたから、ふつうのローソンはみんなに優しく身近で親しみやすい路線でよかったのでは。
・それとも、セブン・ファミマとは一線を画すことが重要?
・あるいは、ここまで話題になった時点で勝ち?
・流れ弾くらった無印良品はもっと視認性が高いよ、というツイートも回っていたし、なんならナチュラルローソンの商品だって下半分写真だったじゃないか
・やっぱり全国ナチュラルローソン化のほうがよかった?ナチュラルローソンは中身が健康志向だからターゲットは似て非なるものなんだろうか。
・引き合いに出されるトロピカーナについては、圧倒的に元デザインのほうがいいと思える。果物に刺さった緑縞模様のストローがトロピカーナのイメージだったから。じゃあローソンの旧プライベートブランド商品に特別印象があったかと言われるとないかもしれない。
・特徴がない=プライベートブランド、の思い込みはある。乱雑とも思える、各商品が必死で存在をアピールする中で、比較的お金をかけていない「ように見える」デザインのものたちがプライベートブランドだろうと。そういうのを変えたかったのかも。
すこしといいつつ長くなったので3行にまとめると、
・やりたいことはわかるがローソンってそういうやつだったっけ?
・そういうやつになりたいなら挑戦もいいと思うが視認性はもうちょい頑張れたのでは?
・ナチュラルローソンはどうした?
です。
ハフポストさんで、ローソンの社長さんがこの件について生配信を行うそうです。6月9日の夜9時から。URLは下記記事から飛べます。
殺虫剤業界の工夫
店頭での視認性と、家での溶け込みを両立させる工夫として、外側のパッケージをはがすと主張しないパステルカラーの本体が出てくるという作戦を取っている商品もある。
この記事でメインに取り上げられているのはキンチョーの「脱皮缶」、関連記事のところにあるのがアース製薬の「虫ゼロ缶」。
こちらは、ただ部屋のインテリアとしてなじむから景観を損なわない、というだけでなく、とにかく虫の絵を見たくないという切実な要望があったからこその対応だろう。
虫が嫌だから殺虫剤を買うのに、そこに虫の絵があってはたまらんという。
でもやっぱり殺虫剤コーナーは、ここぞとばかりに害虫の絵と原色、さらにわかりやすい言葉ではっきり主張しているものが多いから、自社だけパステルカラーにしてしまったら、埋もれる上に下手したら殺虫剤だと認識されない危険性があった。
こういった工夫は、食品ではあまり聞かないが、キッチンの景観にこだわる人は、統一したボトルを別で購入して詰め替えたりするらしい。
だから一定の需要はある、とみるか、そういう人は少ないしこだわる人は自分でやるし、別ブランドとは揃えられないからやっぱりその層には刺さらない、とみるか。
はがせるパッケージのデメリット
で、一見これが最適解では?みんなこれにすれば?と思ってしまうのだが、やっぱり落とし穴というのはどこにでもある。
単純な話、プラごみは増える。
キンチョースタイルは缶全体を覆うため、缶自体に印刷するよりコストはかかる。アース製薬スタイルはアイキャッチシールのみのため、コストもゴミも比較的少ないが、やはり店頭での訴求力は弱くなる。面積が小さいとはそういうことだ。
ペットボトルのラベルも不要、キャップのところにキャンペーングッズみたいな紙をはめたもので十分、という向きもあったが、箱買いものならともかく、単体では売上げに大きく影響するだろうと予測がつく。
特に、確立されたブランドで色やロゴのみで「あ、これこれ」とわかるものならいいかもしれないが、新商品などはもう限られたスペースに「新商品!」しか書けないのではないだろうか。
あと中身の色が丸見えになるので、生茶など意図的に覆い隠しているようなものは対応できない。
外して付け替えたりできない仕様にする必要もある。紙だと店頭で破れたり汚れたりしやすいかもしれない。やっぱり、遠くからわからないのが一番痛い。箱買いして職場で個々人に配られる程度の使い道(アスクル系列のロハコがやっている)でしかなじまない気がする。
パッケージデザインの役割
もうひとつは、店頭で見るものと家で見るものが違う場合、パッケージ自体の役割が損なわれるという点である。
家で何度も見るから、たとえ商品名を正確に覚えていなくても、赤くておかめの顔が書いてある納豆だ、とか、白地に金色のシャンプーだったな、とかがインプットされるのである。そして、ひとは覚えているものを買う。
文字情報より色の組み合わせのほうが印象に残る。だからブランドにはイメージカラーがあり、コロコロかえてはいけないのだ。
つまり、よく見る状態と、選ぶ時の状態が違うというのは致命的になりかねない。いつものやつ買ってきて、が、あやふやな記憶ではできない。
前述のキンチョーとアース製薬は、すでによく知られた商品だったからできた、というのもあると思う。もちろん必要に迫られており、売り上げ増が見込める状態であったというのもある。
ただ、すでに知られている、という前提は、そう長くはもたない。
現在の購買層は、元の缶のデザインをよく知っている。子供のころから幾度となく見てきている。だから、そのデザインを模したアイキャッチシールさえあれば、元の商品と一致させて認識することができる。その商品だから買う、という動機が商品と結びつく。
だが、この変化するパッケージが当たり前になったらどうだろう。
生まれた時から、家にあるのはパステルカラーの殺虫剤だったら?あの強烈なパッケージの印象がなく、それによって圧倒的な信頼感も薄れてしまったら?
邪魔にならないデザインで、他社との差別化は可能なのか?CMではどの状態の商品を前面に押し出すべきなのか?
さらに重要な問題として、殺虫剤の場合はあくまで危険な薬品であるのに、それが瞬間的に伝わりにくく、他のものと混同してしまう可能性があるという点も挙げられる。
あのデザインは注意を引く役割も持っていたのだ。
記事でも、「ヘアスプレーや消臭スプレーと間違えてしまう可能性もゼロではない」と注意喚起がされている。特徴的な噴射口ではあるが、間違えないとは限らない。
寝ぼけて洗顔フォームと歯磨き粉を間違えた、なんて笑い話はよくあるが、殺虫剤では笑えない。「家族には伝えておく」程度で済むだろうか。
来客は、公共施設は、ホテルは、学校ではどうだろう。
それに、大人がわかっていても、例えば小さい子供やペットが触っていたのを目の端にとらえた時、反射的にそれはダメ!!!となるまでのスピードが違ってきそうな気もする。
デザインとステレオタイプの関係性
ここまで、軽い前段のつもりで(5000字近くなってしまったが)、機能性と見た目の両立の難しさについて述べてきた。が、難しさはあるものの、不可能ではない。
機能性を保つどころか存分に発揮する、そして景観も損なわないデザインというのは存在する。
だが本題にしたいのはここからで、わかりやすさ・伝わりやすさを追求すると、デザインはステレオタイプを助長するのではないかという話だ。あるいは、ステレオタイプを排除しようとすると、機能が失われるのではないかという話だ。
例えばトイレなどの男女表記は、日本では男性が青または黒・女性が赤と相場が決まっている。
深い理由があるかどうかは知らないが、理由よりも「今までずっとそういうものだったから」、瞬間的に判断できる。あくまで日本の文化なので、外国に行って間違えてしまいあわや、という事態も起こる。
(完全に余談だが、大人向けのイメージとしてのピンク色は、アメリカでは青、中国では黄色、スペインでは緑だそうだ。)
ここで、性別に色を規定するのはおかしい、という一種の「正しさ」を持ち込むと、わけがわからなくなる。
雰囲気に合うからと緑と茶色で書かれていたら、ぱっと判断ができない。ピクトグラムの形をよく見なければならない。ランドセルの色を自由に選べることと、ピクトグラムの色をつけることは、同列に語れないのである。
が、ピクトグラムの形も、ステレオタイプそのまんまのようなものである。情報を削って単純化したわかりやすさ、というのは、普通こうだよねという共通認識があってこそのものだからである。
先ほどのピクトグラムに、さらにスカートが女性というのはおかしい、という「正しさ」を加えると、緑と茶色の同じ棒人間が2つ並んでしまう。ピクトグラムの用をなしていない。
スカートを履く男性がいてもいいし、女性の普段着は半数くらいがズボンだし、ダサピンクの押し付けは最悪だが、ピクトグラムだけはそう簡単に変えるわけにいかないのである。
かといって、「女性」「男性」の文字のみに頼るのは、遠くからの視認性が悪いため読み間違いやすく、子どもや日本語ネイティブでない人にやさしくない。
絵で意味を伝える、というデザインが持っている役割は大きい。
(※海外育ちの場合、前提となる常識が異なることで、意味が正しく伝わらないパターンもあるはず。せめて英語表記はほしい)
グラフデザイン
ピクトグラムに限らず、例えばアンケート調査を行った結果のグラフを男女で分ける場合、どう考えても青系と赤系を使ったほうが見やすいし頭に入りやすい。
わざわざ逆に使ったりするのは問題提起のアートにはなると思うが、おそらく大半の人間が内容をきちんと読み取れないだろう。オレンジと紫なんて使われた日には、グラフの内容よりその色を選んだ意図が気になって仕方がないし、色覚的にもおすすめできない。
海と山なら青と緑、国語と算数なら赤と青、山手線と総武線なら緑と黄色、リンゴとバナナなら赤と黄色。
黄色は見づらいので縁取るか限りなくオレンジ色に近づけるのがいいと思うし、青と緑は明度をいじったほうがいいと思うし、色に頼らずとも内容が読み取れるように工夫すべきではある(このあたりはサイボウズさんがアクセシビリティの高いプレゼンの作り方を公開していたので参考になる)が、色を見た場合にミスリードになる使い方は避けるべきである。
デザインとステレオタイプの再生産
ピクトグラムが、あるいは文字に頼らないデザイン自体が、特定の物事を抽象化して、共通認識にしたがった単純化によって「わかりやすさ」を担保している以上、例外的な部分は排除されるし、ステレオタイプを再生産する。
そして、それが当たり前とされる世界で人々が暮らし、固定化されたステレオタイプを利用してまた言語に頼らない「直感的な」デザインを生み出す。
いいとか悪いとか以前に、構造的にそうなのだ。
「家族」のイラスト、といえば、父、母、子どもがひとりかふたり、犬がいたり祖父祖母が(セットで)いるくらいのバリエーションしか思い浮かばない。「恋人」のイメージ写真に、男性同士・女性同士に見えるものを選んだら、「わざわざそのようにした意味」を問われる。ポスターに描かれるのはたいてい日本人のように見える容姿で、「ハーフタレント」を使ったCMは「かっこいい」「洗練された」イメージを前面に押し出す。「外国人」フレンドリーな街に!というおもてなし運動で想定されているのはアメリカ人、もしくはせいぜいヨーロッパ人で、絶対にタイ人やコンゴ人ではない。
多様性がいくら叫ばれようとも、でも代表的なのは、わかりやすいのは、伝わるのはこれだよね、に勝てない。
「そう」じゃない人もいることを踏まえると、すべてが煩雑になってしまうからだ。
作り手としては、「そう」じゃない人もいることはわかっているけど、でも「普通」はこうだし、「一般的なイメージ」を利用するしかない。
それでも、受け手が「そう」でなかった場合、これが「普通」だと示されること自体が苦痛であったり、自分は「普通」じゃない、あるいはこれ以外の人は見えていない、認識されていないように感じることはありうる。
加えて、「そう」である受け手は、「そう」でない人の存在を意識するきっかけがない。結果として、やはり「そう」でない存在は「普通」として認識されず、再度抽象化・単純化を行ってもだいたい同じようなものが再生産される。
お笑いも「あるある」や「いるいる」を抽出して模倣することをベースにする限り、この構造から逃れられない。
価値観のアップデートやポリティカルコネクトレスに関心が高い、あるいはキャッチアップしている人はこのあたりのバランス感覚に優れているものと思うが、そうでない多くの「業界人」が古い価値観から抜け出せず、時に違和感を、時に怒りを、時に炎上するほどの間違いを引き起こすのはさもありなんという気がする。
まとめ
論点がずれている気がしないでもないが、総括すると、
「誰でもわかりやすい・伝わる」ために「抽象化・単純化」することで成り立つ「デザイン」は、「多様性・例外」を省略するため、結果的に「ステレオタイプを再生産する」ことになる
という構造上のジレンマを、すくなくとも認識しておくべきではないか、ということだ。
そして、安易に「ポリコレ」を導入しようとすると、デザインが死ぬことも覚えておかなければならない。
最初に述べたが、どちらも大切なのに両立が非常に難しいのしんどいね、という話をしている。
「デザインはステレオタイプを助長する差別主義者」とか、「デザインをポリコレ棒で叩くやつは構造を理解していない馬鹿」とかそういうことにしないでほしい。
あ、これは美しいな、というデザインに出会えることを楽しみにしている。
6月6日・7日、5時間、7500字