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ICPIC(子どもの哲学国際学会)に初参加!

2022 ICPIC TOKYOに初参加

8/8〜8/11の期間、立教大学で開催されていたICPICに参加してきました。
ICPICとは、2年に一度開催される子どもの哲学国際学会です。私も開催の直前に初めてこの学会を知ったのですが、20回目の今回は東京で開催されるということで勢いでチケットを取りました。(研究者でもなければ哲学に詳しいわけでもないけど)
2日目だけリアル参加し、3日目のkeynoteを通勤中に聴きました。

多くの発表は英語。残念ながら私は日本語の発表のみ聴講(何を聴講するか悩まなかったのは良かった笑)。

私が聴講したセッション内容と感じたこと

私が聴講したセッションとその内容の一部、感じたことを記します。
※各セッションの内容は思い出しながらなので多少違ってるところがあるかもしれません。

●day2 keynote:子どもとはだれ?哲学対話とはなに?


●悩みを抱える子どもたちの心とピアサポート

この二つは移動しながらzoomで聴講したので若干途切れ途切れ。近い悩み(障害、引きこもり等)を持つ人が共感しながら対話するのがピアサポートの基本であるのに対し、keynoteの中では必ずしも同じ境遇の子ども達が対話するのが良いわけでもないといった内容があったのが対照的に感じました。
私も子育てコミュニティを経験して、同じ境遇の人たちが集まる安心感も想像できるけど、ずっとその環境では頭打ち感があるような気がしています。参加者が多様なほど発展的で豊かな対話ができるように思います。心理的安全性の担保は難しくなるのかもしれませんが。
日本の30人に1人は精神疾患であり、諸外国に比べても多いということと、引きこもり当事者の方の「人は孤独は好きでも孤独には耐えられない」という言葉も心に残りました。

●P4wCと生活綴方教育

生活綴方(つづりかた)教育とは大正時代に盛んだった、生活をありのままに綴る教育手法で、今の日記や詩を用いた教育に繋がるものだそう。書いた文章を読み合うことが、子どもの哲学実践に繋がるのではないかといったお話がありました。
文章にすることで内省が促される、伝えやすい、残るというメリットもあるし、対話という点では文字に残ることが自由度を下げるような気もしました。私は悩んだ時や頭が整理できない時に文章にすることは非常に良く行いますし好きな方法ですが、対話の自由さやある意味無責任さも大事なような気がします。

●大学における哲学対話の可能性の探究

金沢工業大学で科学技術者倫理を教えていた先生がお話しされました。科学者などの専門職がプロとしてどういう倫理観を持って行動するかを考えていく内容だそうで個人的にとても興味がありました!
その仕事をする上で本質を問うこと(医者で有ればそもそも健康とは?とか、看護師で有ればケアとは?等)また、専門職とpublicがそれを対話していくことの重要性を説いていて、共感する部分が大きかったです。私も社内で会社全体や部署の本質を問う哲学対話をしてみたいと思いました。
金沢工業大学ではこの授業が必修だったそう。私も一応化学生物系の学科でしたが、必修どころか選択にもなかったような気がします。これを必修としてるところに同大学の倫理観も感じ魅力的だと思いました。
講義された金光先生(現在法政大勤務)の価値観も素敵だと思いましたが、講義のわかりやすさや時間配分の綺麗さも勉強になりました。

●オンラインゲームについて考え議論するp4cの実践

現在教師として勤務されながら博士課程で学んでおられるという若い先生が、浜松市の小学校での実践例をお話してくださいました。
対話(オンラインゲームについて)と情報提供(タイムマネジメントスキル等)を組み合わせた授業により、そのクラスの子ども達のSNSやオンラインゲームの時間が減ったという例でした。
他の方も質問されてましたが、そもそもオンラインゲームは悪、時間を減らすべき、が前提の対話になっていたのではないか?という点が気になりました。
疑問も多かったものの興味深い内容だったので、授業の詳細や更なる実践例も聞いてみたいと思いました。

●カタストロフィを乗り越える哲学対話ー他国と比較しつつ日本の近年の哲学対話コミュニティを見る

近年の日本の哲学対話の広がり方についてが中心だったように思いますが、ふわっとした情報が多い印象でした。哲学実践を積まれている方が話者の一人だったので、もっと個別の実践例を聴けたら良かったなと思いました。
日本では現在哲学カフェブームで、そのきっかけとなったのがどうやら3.11だということを知りました。
哲学対話の本質を理解されずに広まっていることに危機感を感じているという意見もされていましたが、哲学対話の意義や定義が完全に必要だとは私は思いません。哲学的対話は人が対峙すれば意図せずともどこにでも起こりうると思います。
日本では3.11以降、哲学対話が自然発生的に広まり、哲学対話先進国となった、みたいなことになったら素敵じゃないですかね。

●day3 keynote: 哲学対話とマスメディアの役割

通勤中zoomで聴講しました。毎日小学生新聞編集長の木村さん、Eテレプロデューサーの佐藤さん、国立教育政策研究所の西野さん、司会は(私が勝手に師と思っている)立教大の河野先生と、私としてはとても贅沢なメンバーでした!
私が特に印象的だったのは、道徳教育に精通されている西野さんのお話。5年くらい前に道徳教育について大きく改訂があり、従来の正解を言わせるような授業から、多様性の認識と協働できる力の育成を目指す方向にシフトされたそう。
道徳で正解を言わせる授業が問題視された背景があったそうですが、めちゃくちゃ共感しました。私も小学校の道徳の授業で正解がないはずの問いの回答に「△」をつけられたことを今でもよく覚えていて、先生も先生で申し訳なさそうなやりずらそうな態度だったのも印象に残っています。
大人は子どもに教えなきゃいけないと思っているけど、子どもは体験して学んでいるし、もっとそれを話したいと思っている、という点も共感。教えられたって体験しないと納得できないもの。
私の場合、道徳の教材は面白くて好きだったけど、授業は楽しくなかった。意見を言い合う時間があったけど、いつもシーンとしていて発言できるような空気じゃなかった。あの場で心理的安全性や対話を体験できていたらその後の人生に多少なりともプラスの影響があったんじゃないかなと思ったりする。
道徳授業においては良い方向転換をしたんじゃないかと思いますが、先生にとってはすごく難しいことを要求されているとも思います。
もう一つ、印象的だったお話が、哲学と道徳の違いについて。「道徳はいずれ意思決定をしなければいけない、ずっと探究してはいられないもの」という回答になるほどと思いました。「意思決定するための対話が道徳における哲学的対話。プロセスを豊かにするために哲学対話使いたい。」という言葉がなんだか凄く分かりやすくて美しいと思いました。

私は現在哲学対話の実践を積みたいと思って少しずつ参加してみたり開催してみたりしてますが、その理由は新たな視点が得られて単純に楽しいからというのが強くて、対話自体を目的にしていました。でも、今回の西野さんのお話を聞いてやはりその先の自分の意思決定、行動の軸を持つためにこれからも哲学対話を続けていきたいと思いました。

最後に

私は普通の会社員をしているので、国際学会なんて出る機会はありません。今回の学会は一般人にもオープンで非常にレアな体験ができたと思います。
ワークショップや、他の参加者との交流ができなかったのは悔やまれますが、別の機会に挑戦しようと思います。

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