マンガ「月の子」で読み解くジェンダーの揺らぎ
自我と女性性との狭間で苦悩する人魚たち。同じ顔の三つ子を通じて描かれるジェンダーの揺らぎが切なくて愛しい。
※2020年6月6日に作成したものを一部改訂したものです
<以下、一部ネタバレを含みます>
コロナの影響で在宅勤務にすっかり慣れてしまった身には電車通勤は思った以上に重労働で、今日は家から一歩も出ずにゆったり自宅時間を過ごすことに。
そんな土曜日の午後のお供に選んだのが清水玲子先生の漫画「月の子」。
約20年ぶりに再読して改めて今だからこそ分かることも多くて味わい深く、やっぱりワインは熟成したほうが美味しいのと一緒で、自身の経験を経て読み返す味わい深さを堪能することができた。
「月の子」は、人魚と呼ばれる宇宙を横断する種族が、産卵場所として自然豊かな地球を選び、数百年に一度の産卵期となる80年代後半のニューヨークを舞台にした物語(クライマックスはソビエト)。
しかも、アンデルセンの人魚姫の話とからめ、人間に恋した人魚の起掟を破ったセイラを母に持つ人魚と人間のハーフの子供たちの物語が絵画のような流麗で美しい絵面で紡がれていく。
映像で見たいなと思わせる美しいシーンの連続で、読後はまるで広大な美術館を巡ったような快い疲れと満足感に浸される。
しかも内包しているテーマが人間の抱える矛盾から生まれるドラマで、20年ぶりに読み返してみたら、その深さに驚かされた。
主人公は人魚と人間のハーフの子供ベンジャミン(ジミー)なのだが、同じ卵から生まれた三つ子の姉妹(子供姿は敢えてユニセックスな少年姿)のそれぞれの役割が絡み合って、80年代後半から90年代の女性のジェンダーを描き出しているのが面白い。
主人公のベンジャミンことジミーは3人の中で唯一、女性化(成体)できる存在ではあるが、人間のダンサーの青年アートに恋をしてしまい母親と同じ轍を踏みそうになる。そんな彼女が普段は10歳くらいの幼い子供の姿をしていて、自らが望まないタイミングで成体化して絶世の美女になってしまったことで回りの男性たちが目の色を変える姿に戸惑い怯える姿が興味深い。
心は幼いままで、そのありのままの姿を受け入れ愛されることを望みつつも、外見が先行してしまって、心と心の繋がりよりも見た目に引き寄せられる男たち。女と男である以上、どうしても外見の印象からは逃れられないのだと思い知らされる。それでも、本当の自分を理解して愛してほしいと思う気持ちは、ある意味とてもロマンチックなものだったのだと、この年だからこそ実感するようになった。
そして、2人目の姉妹セツは3人のうち誰よりも女性的でとても庇護欲をかきたてる存在で、女性性を凝縮したような存在なのだけれど、彼はジミーのスペアでしかなく、ジミーが死ななければ女性体にはなれない。それでも彼(彼女)が同じ人魚の青年ショナに想いを寄せ、時として大胆にも思える突発的な告白や行動は、とても女性的だし、他者への無償のやさしさを折々に垣間見せる姿はとても美しく、私ですら守ってあげたい気持ちになってしまうほど可憐で、女性としてある種の理想像でもある。けれども、彼は女性体にはなれない。その残酷さ。トランスジェンダーの要素も持ちつつ、もしかしたら実は一番、女性という本能に忠実だったのかもと思える。
そして3人目のティルト。彼は一番の健康体で頭も良くリーダー格ではあるけれど、卵子を持っていないため生まれた時から不適合者の烙印を押され、ジミーやセツ(の卵)を守らなければならないという枷に苦しむ。一番、能力が高いのに、お荷物とも思える何もできずに依存してくる2人を食べさせなければならない。しかも、食糧調達のために大変な思いをしていることすら知らずに無邪気に享受する2人に殺意すら覚えてしまう。同じ外見なのに、卵を持っているかいないかというだけで、明確に立ち位置に境界線を引かれてしまい、どんなに望んでも対岸に行けない現実はかなり残酷に思えるし、殺意を抱いてしまうのも致し方ないのではと思わせる説得力がある。そして、自分の存在と一番対岸にいるセツに憧れやまず、誰よりもセツを愛し守ろうとするのだが、その本心がセツになりたかったという自己愛にも近いものだったことも切ない(セツは本能というか女の勘でなんとなく気づいていたような気もする…)。
ただ、改めて考えみたら、同じ顔をした三つ子が女性体になれるか、卵を持っているか、持っていないかで明確な境界線を引かれてしまう風潮こそが残酷で理不尽であり、それは現代の女性にとっても同じことなのかもしれないと思う。
「月の子」の連載が始まったのは1988年だが、ちょうど80年代後半は1985年に男女雇用機会均等法が制定され、キャリアウーマンも登場しはじめた年代だった。
働く女性、母として子供を育てる女性、そして女性自身の人としての自我の芽生え。多様化の兆しが見え始めた時代だからこそ、逆に画一された存在からの逸脱は時として見えない心の傷を生み出していたようにも思う。
他者とは違うことを認識し自我を持つことで、他者との違いに苦しむ土壌も生み出してしまったのだ。それが「月の子」では、3姉妹という3種3様の形となって生まれたのではないだろうか。
千々に乱れる女性たちの心の叫びが、ジミー、セツ、ティルトの姿を借りてメッセージを発信しているようにも思える。
そんな中でも特に「ありのままの自分を愛して!」と思うジミーはやはり主人公たる存在だったのかな……と、今なら思う。
「月の子」を最初に読んだのは高校生の時で、その時はセツの儚い美しさに惹かれて応援したい気持ちが高まって、ジミーが嫌いだった。学校行く前に本屋で立ち読みしたセツとセツが慕うショナのキスシーンに当時とっても心トキメいて、その日は授業なんてそっちのけでセツの幸せだけを夢見ていたため小テストは散々だった(笑)
2回目に読んだのは20代で、働き始めたころで女性性と1個人としての想いとに揺さぶられていた頃で、無邪気で幼いジミーがやっぱり苦手だったことに加え、高校生時代に大好きだったセツが、実はすごく受け身だったことにも気づいてなんだかちょっと気持ちが覚めてしまい、それから20年も距離を置いてしまっていた。ある意味、私は卵を持たないティルトの道を選んでしまったからなのかもしれない。
そして3回目。40代に改めて読み直すと、ティルトの切なさがものすごく胸に響く。それは私がもう子供を成すには危険領域の年齢になってしまったから、卵を持たないティルトの苦しみが分かるようになったのかもしれない。
そして、この年だからこそ、外見ではなく魂の本質を見てほしいと思うジミーの無邪気な純粋さが眩しく、そして距離を置いたからこそ素直にジミーの想いに共感できるようになって、ジミーが主人公であるこの物語にとても納得できて、読後が今までにないくらい爽快だった。
種の本能として子孫を残すことは確かにあるけれども、それ以前に、私自身=人としての個の存在、魂の本質に気づいて欲しい。そして男と女というだけでなく人と人として惹かれ合い理解しあえたうえで、その2者が男女であれば、相手と自分の遺伝子を混ぜ合わせた子供を作りたい。そう思うことは人として自我を持ち、かつ女性という性を持つ存在としてはとても全うで、けれども社会的にはまだ理想=ファンタジーなことなんだと突き付けてくるのがある意味、辛い。
そして、連載開始から約30年経った今でもそれが変わっていないことに複雑な気持ちにもなる。
でもだからこそ「月の子」は現代の美しい御伽噺として、今なお心を打つのだろう。
いつか、ありのままの自分を愛してくれる相手こそ真の王子様なのだと、そういった相手との出会いを夢見せてくれる秀逸なおとぎ話に、しばしひと時の心の安らぎを見出すのだった。
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