note疲れを感じても、私は『スキ』ではなく『コメント』を届けたい。
最近、noteに割ける余力がなくなってきた。
少し前までは朝も5時半ぐらいに起きていたのが、最近は6時になっても起きられなくなった。日の出が遅くなったことも関係しているだろうけど、もっと気になるのは疲れが溜まってきていることだ。
職場に着いてからも、始業までは目を閉じているし、昼休みは食事が終わったら机に伏せて寝ているし、帰りも首がかっくんかっくんとしている。
そして帰ったら次の日の準備をして、シャワーを浴びて、片付けをして、としているうちに寝る時間が刻々と迫る。やっておきたいこともたくさんあるのに、気が付いたら一日がもう終わりを迎えている。そして、至福の睡眠の時間もつかの間、起きて、職場に着いて、仕事が始まって、休憩をして、と、どんどん時間が進んでいく。
今月は身の回りでいろいろなことが起きて、体がびっくりしては体調を崩して、立ち直ってきたかと思ったらエネルギーレベルが落ちている。
こんなことは言いたくないけど、エネルギーと時間が追い付いていない。
そんな中、追い討ちをかけるようにnote疲れもやってきた。
書きたいと思うことはあるのに、なにかが私を阻んでいる。
どうしてもうまくまとまらない。書き進めていっても、壁にゴツンと頭をぶつけているような、そんな感覚があって先に進めない。目を瞑って頭をどうにか回転させようと思っても言葉がうまくまとまらない。
そして、ギリギリのつぶやき更新で一日のノルマをしのぐ状態。
中身のないスキを見るのに疲れたかと思えば、今度は書くことに疲れたというのだろうか。
だからこうして書けない気持ちを書いているわけだけど、こんな内容でいいのだろうかという気もしている。
でもこれは紛れもなく、いまの私の気持ちなのだ。
そして、最近は『スキ』をあまりつけなくなった代わりに、コメントを書くように意識している。
私自身が感じてきた『スキ』の曖昧さに悩む人を減らしたいという思いと、思いは言葉にしないと意味がないという気持ちからだ。
コメントを書くのにはエネルギーを使う。頭も使う。記事を読み込んで、引っかかったポイントをいくつかピックアップして、どう思ったかを改めて咀嚼しながら書くからだ。だから、大抵の人は琴線に触れた時以外はやりたがらない。手軽なスキで済ませてしまうのだ。
でも私は、『スキ』に逃げたくないし、妥協したくないのだ。
これは今の私のなかで言い聞かせていることに過ぎないけど、「『スキ』で済ませるのは甘え」まである。
どんな意図かわからないハートは、悩めるクリエイターをさらに悩ませる、罪深い種だ。あまり喜ぶべきでない内容に対する『スキ』や『いいね』は誤解を招く可能性だって孕んでいる。つける側の手軽さの一方で、受ける側にとっては複雑極まりない、なんとも厄介なものなのだ。
どれだけ心に響いたとしても、スキで済ませているうちは、真の気持ちが相手に伝わることはない。相手に伝わらなかったのであれば、それはなにも思っていないのと同じだとさえ、時々考える。機械的につけられる中身のないスキと同じ1にしかならないのだから。
だから、私は『スキ』を捨てた。
代わりに『コメント』で気持ちを伝えることにした。
中身のあるコメントを書くのは疲れる行為だ。
でも、その一言が、どう思われているのかわからなくて苦しんでいるクリエイターを救うかもしれない。
だから、私は、特別な気持ちを抱いた記事に対してはなるべくコメントを届けたい。
本当に良いと思った記事にスキをつけていたとしても、それは相手からは知りようのないこと。それが本心からのスキであっても、あまりにも不透明な"それ"が相手を悩ませてしまうことだってあるのだ。それなら、スキをつけてさらにコメントをすれば本物だ。
「あの人の記事、よかったなぁ。コメントでお礼伝えたいな。スキで済ませるなら今すぐにでもできるけど、でもそれではその他大勢と同じ。だから、時間がかかっても、日数が経とうと、大事なことはやっぱり言葉で伝えたい。さぁ、なんて書こうか . . . 」
肝心のnoteの記事を書くための余力が、コメントを書くためのエネルギーとして使われているのかもしれない。
でも、言葉は生ものだ。その時に感じたことはなるべく早いうちに伝えたほうがいい。
その言葉が熱を帯びているうちに。
そして、「あの時伝えていたらなにか変わったのかな」と、手遅れになってしまう前に。
だから私は、今日もコメントを届ける。
100のスキより、1のコメントが濃い霧を晴らすことだってあると知っているから。