オトナだからこそ味わいたい、児童書の世界。「くまの子ウーフ」、再読。
「くまの子ウーフ」。
私とこの本との出会いは、実は私の子供時代ではなく、いい加減大きくなって、大学生の頃であったろうか。
当時、私の姉は幼稚園の教諭をしており、読み聞かせに使うのか、あるいは姉が学生の頃に勉強していた児童心理学の資料としてなのか、とにかく姉の本棚には児童向けの図書や絵本がずらりと並んでいたものだった。
ある日のこと。
姉が、ある本を持って私の部屋に来て、とあるページを開きながら、この本の挿絵、何となくお母さんとあなたの小さい頃に似てない?とくすくすと笑いながら言った。私が本を覗き込むと、浮かない顔をした子熊が、母熊にお風呂場と思しき場所でお湯をかけてもらっている挿絵であった。
私が子供の頃、母も私も「丸っこい」体型をしていたから(私は今もそうだが)、言われてみれば、どことなく、似ているような気もする。そして何より、おそらく姉は記憶していないだろうが、私が幼い頃、雨上がりで地面がまだぬかるんでいる空き地を、乗れるようになったばかりの自転車に乗って遊んでいて、何かのはずみで転倒してしまい、泥だらけになって家に帰り、出迎えた母が私を風呂場で洗ってくれた事があったのだが、その日の事を思い出して、何やら懐かしいような、ほのぼのとした気持ちになったものだった。
その時、姉が見せてくれた本が「くまの子ウーフ」である。
その日以来、私はウーフが好きになった。
子供時代の、もうひとりの自分がそこにいるような気がしたからだった。
「くまの子ウーフ」が、小学校の国語の教科書にも教材として採用された作品であること、自分が生まれた頃にはすでに刊行されていた作品であることを知ったのはもっと後になってからだ。ウーフ。出来れば子供時代に会っておきたかった。
* * *
今回の「キナリ読書フェス」の課題図書の中で「くまの子ウーフ」が選ばれていることを知った時、これは感想文を書かねばなるまい、と思ったものである。正直なところ、薄ぼんやりと「終活」やら「定年」という言葉が見えてきた年回りの成人男性が「くまの子ウーフ」を読み、読書感想文を書く、ということにある種の「照れくささ」を感じてしまうのは仕方のないことではあるだろう。
しかし、それでもなお、この機会に「くまの子ウーフ」を再読しようと思ったのは、大学生の頃に初めて見た「ウーフ」の話を、ある程度社会経験を積んだ今、改めて読んでどんな感想を抱くのか、自分なりに知っておきたかったから。童心に帰りつつも、初めて「ウーフ」を読んだ時に感じた、この作品の中にたゆたう、可愛らしさと共にある、何か深いもの。それがあの頃よりも解像度高く感じ取れるのではないか、というあわあわとした期待があったからだ。
会社帰りに、駅前の書店で発売されたばかりの「くまの子ウーフ」の新装版を買う。店員さんに「プレゼント用ですか?」と聞かれた。
包装は結構ですよ、と会計を済ませ、ビジネスバッグに入れる。
そう、これは週末に私が読む「くまの子ウーフ」なのだ。
殺風景な私のバッグの中の景色が、少しだけ温かみを帯びたような気がした。
* * *
自分は何者であるのか、を知った先に得られるもの。
「くまの子ウーフ」を改めて読んでみて、最初に感じたことは、この作品の通奏低音として「『自分が何者であるか』という疑問に、一定の解が得られた時に感じる安堵感こそ、幸福の源泉なのではないか」というテーマがあるのではないか、ということである。
「くまの子ウーフ」で最初に語られるエピソード、「さかなには なぜしたがない」で、
「木はいいなあ。木になりたいなあ。」
「こんなもしゃもしゃの毛皮のかわりに、みどりの葉っぱをつけて、すずしそうに立っているんだ…(中略)…木のぼりしなくてもはちみつがなめられるよ」
「さかなはいいなあ。」
「さかなはすずしい水の中で、一日じゅう、水あびしていればいいんだもの。」
ウーフは純粋な子供の目線と心情で、こう語る。
大人になっても、こういう心情は別な形で抱きがちだ。
例えば、いきつけの居酒屋のカウンターで親しくなった、自営業の人と、サラリーマンという生き方を選んだ人。きっと、どこかお互い心の中で、ウーフと同じように「いいなあ」と思っているところがあったりするものだ。
さまざまな話をしている中で、お互いの仕事上の辛さを知るまでは。
ウーフは、川で一匹の鮒に会い、「さかなになるための修行」を受けることになるのだが、それは半ば鮒にからかわれているだけで、挙げ句、どうしても魚になりたければ、舌をひっこぬいてからだ、と言われて、怖い思いをして家に帰ってきたウーフを、おかあさんは抱っこしながら、優しく答えるのである。
「さかなには、はちみつをなめなくていいから、したはいらないの。はじめからしたはないんですよ。」
おかあさんの話を聞いて、ウーフは、
「うーふー、うれしいな。ぼくはしたがあるから、はちみつがなめられる。手があるから、おかあさんにだっこもできるよ。ああ、ぼく、よかったなあ。くまの子でよかったなあ。」
と「安心してさけぶ」のである。
そうだ、最初に読んだ時はそのまま読み進めてしまったのだけど、ここで作者の神沢利子さんは、ウーフは「安心してさけびました」と描写しているのだ、改めて読むと、ここにウーフが、おかあさんの話を聞くまでいかに不安で怖かったか、ということが強く印象付けられる。ウーフが、自分は「くまの子でよかった」とさけんでいる時に感じているであろう、圧倒的な安心感、安堵感。それは井上洋介さんの、おかあさんがウーフを抱っこしている挿絵の可愛らしさと、神沢利子さんの「言葉選び」の秀逸さが相まって、読み手にほっこりとした心情を感じさせるのではないか。
この「『自分が何者であるか』という疑問に、一定の解が得られた時に感じる安堵感こそ、幸福の源泉なのではないか」という私が感じたテーマは、次のエピソード、「ウーフは おしっこでできてるか??」では、また違った切り口で語られることになる。
今度は、ウーフは自分で、その答えを見つけ出す。
「ねえ、おかあさん、ぼく、わかったよ。ぼくね、なんでできてるかっていえばね。」
(中略)
「ウーフは、ウーフでできてるんだよ。ね、おとうさんそうでしょう。」
それは子供らしい、可愛らしい「解」ではあるのだけれど、そこに少しだけ、成長して大きくなったウーフがいることが、微笑ましくもある。
そう、この歳になってウーフを読む愉しみは、どこか「親の目線」でウーフを見守れるということなのだ。
子供なりの、打算とリアリズム。
ウーフを読み返してみて、意外に感じたのは、「お金」というべきか、「財産」というべきか、そのようなものがサブテーマ的に扱われるエピソードがあるという事。存外、ウーフはちゃっかり、もとい、しっかりしているなあと感じるシーンがある。
「きつつきのみつけた たから」では、山の木の下には昔、海賊が埋めた宝があり、そのありかを、ゲラが木にきいてまわっている…そんな話を、友達のツネタから聞くウーフ。
「ふーん、ゲラのやつ、うまくやってるなあ」
このあたり、なかなか大人びたセリフではある。
もう宝が見つかるころだろう、というツネタの言を信じたウーフは、ゲラとのところへ赴くと、
「そいで、あのう、ぼくにおてつだいできることはありませんか。土をほるとか、うちにはこぶとか…」
取り入ろうとしているのである。
もちろん、ウーフはゲラから宝物を奪い取ろうとか、ひとりじめにしてやろうとか、そんな邪悪な事を考えているわけでは決してなく、ツネタから宝がどんなにつまらないものでも「ウーフが持っているハーモニカより良いもの」だろうさ、という話を聞いた上で、素朴な興味から「木の下に埋められた宝」に興味を持っているにすぎないのだが、それにしても、手伝えば何かしらのおこぼれにあずかれるに違いない、という算段はあるのだ。
「おっことさないもの なんだ?」では、どうか。
夏の日、あまりの暑さにソフトクリーム百個なめたいとひとりごつ、ウーフ(ちなみに、子供にとっての「百個」が「たくさん」と同義語であることは、皆さんご自身も子供の頃はきっとそうであったろうと思う。この神沢さんのこうした言葉選びも「ウーフの子供らしさ」を描く上で重要な味わいになっているのではないか)。友達のピピから、こんな話を持ちかけられる。
「ちょっと、ウーちゃん、いいこと教えたげる。あたしね、町のお店で毛皮を売っているの見たことあるのよ。」
(中略)
「だから、あんたも毛皮をぬいで、売ったらどうお。お金もちになれるわよ。」
「えっ、ぼくがお金もちに。」
(中略)
「ほんと、それ。」
「そうよ、はちみつだって、はちみつをいれとくすてきなつぼだって、ビー玉だってなんだって買えちゃうわよ。」
「じゃ、花火もヨットも。」
「すごいや。ぼく、すぐにぬいじゃうよ(中略)」
もちろん、毛皮が脱げるわけもなく、
「あーあ、ソフトクリームも、はちみつも、花火も、ヨットも、みんなだめ…」
ウーフは、なきだしました。
この2つのシーンは、子供なりの「打算」がよく描かれていると思うのだ。子供は天使のような無垢な存在であると、つい大人は思いがちだ。もちろんそういう面はあるのだけれど、しかし子供もまた、リアルな人間なのだ。むしろ大人よりもリアルに、むき出しの「人間」なのではないか。だからこそ、初等教育の段階で「何をすべきか」「何をしてはいけないか」という基礎を学ばなくてはいけないのだ。
自分の子供時代を振り返っても、大人がイメージする以上に、きっと子供は物事をリアルに把握し、打算的に動く。ただ大人と違うのは、その論理や行動の「解像度」が低いだけなのではないか。その意味で、ゲラに取り入ろうとするウーフ、自分の毛皮を売ろうとするウーフに、私は逆説的な意味で、リアルな「子供らしさ」を感じるのである。
この2つのエピソードは、いずれもが、経済的な財産ではなく、別の形の幸せ、「プライスレスな、大事なもの」がそこにある、という結論で締めくくられる。
「おっことさないもの なんだ?」で、終盤、おかあさんはウーフにこう語りかける。
「あんまり走ったから、ふたつの足を落っことしたかな。あんまり手をふったから、ふたつの手をおっことしたかな。目はどこかな。」
(中略)
「目も、鼻も、口も、手も、足も、おっことすもんか。はさみなんかできられるもんか。」
「だから、なんでも見られる。なんでももてる。」
(中略)
「元気なくまの子は、山いっぱいになんでももってるのよ。きれいな花も、おいしい木の実も、はちみつも、なんだってね。」
ウーフが元気なくまの子でいること。そのことがウーフにとっても、おとうさんにとっても、おかあさんにとっても何より大切なことなのであって、そのことこそが「おっことさないもの」のひとつなのだ。
この「おっことさないもの なんだ?」で語られるテーマは、先に述べた「『自分が何者であるか』という疑問に、一定の解が得られた時に感じる安堵感こそ、幸福の源泉なのではないか」」にもつながる形になっている。
さらに、実は「おっことさないもの」こそ、物質的な幸せよりも大事なものであることを、そっとウーフに語らせるのである。
「あのね、こがねむしね、お金もちだったのに、お金をすっかりなくしちゃったんだって。でもね、ちっちゃな、にじを持ってたよ。とってもきれいな、にじ!あ、そうだ。おかあさん、おやつちょうだい。」
きっとウーフは、こう話していて、自分ではまだその「おっことさないもの」の核心に気づいていないのだ。しかし、気付きの萌芽は、確かにそこにある。ウーフの成長が楽しみであると共に、私達もまた、自分で気づいているだろうか。こがねむしの「にじ」に当たるものを。おっことさないものを。
大人でも腹落ちする「解」が導けない。「ちょうちょだけに なぜなくの」
「くまの子ウーフ」の中で、ある意味一番「難解」なのがこのエピソードだと思うし、同時に本作の味わいを一層深めているエピソードのひとつと言っていいだろう。
ある日の夕方、部屋に入り込んできた蝶を捕まえようとするウーフ。しかし蝶は、逃さないようにとウーフが閉めた窓に挟まり死んでしまう。泣き出すウーフ。おかあさんに言われて、蝶のお墓を作ってあげた。友達のミミとお墓を拝むウーフに、ツネタが言う。とんぼをつかまえて遊んだ時、羽がとれて死んでしまったトンボがいたのに、おしりでつぶしてしまったてんとう虫がいたのに、何故その時は泣かなかったのか、と。
「へんなウーフ。さかなも肉もぱくぱくたべるくせして、は、ちょうちょだけどうしてかわいそうなの。おかしいや。」
殺伐としたSNSでのやりとりなら「クソリプ乙」と言われかねないツネタの言であるが、しかし、ある部分では正鵠を射ている。そうだ、なぜちょうちょだけに泣くのだろう。
蝶が部屋に入ってきた時、おとうさんが逃してやりなさい、と言っていたのに、言うことをきかずに捕まえようとして死なせてしまったから?自分の行動さえ変えていれば、蝶は死なずに済んだから?
しかし、それだとまさにツネタの言う「とんぼをつかまえて遊んだ時」はどうなのかという話になってしまう。
「蝶はかわいいから」
そうなのだ。蝶がきれいで、可愛いものなのに、自分の手で殺めてしまったから悲しい。とんぼはきれいでも、可愛くもないから、泣かない。それなら論理的には筋は通る。通るが、その理屈の後ろめたさたるや、どうであろう。綺麗な、可愛いものだけが悲しまれるのか。それを是認してしまえば、それは命には軽重があるということを、真正面から認めてしまうことになる―
もし自分がウーフの父親で、ウーフから、ツネタからこんな事を言われたよ、なんでちょうちょだけに泣くんだろう、と聞かれたら、何と答えようか。自分には子育ての経験はないけれど、どうなのだろう。自分でも腹落ちする結論は導き出せていないのだが、どうあれ人間は生きていく上で割り切れないもの、不条理さというものを抱えていかなくていけない側面があるのも事実で、そういうところから話すのだろうか。
どうあれ、単純にお父さんにもわからないよ―では、いけないような気も、する。
いつの日か、自分も、ウーフもすとんと腹落ちするような「解」を導き出したいものだ、とは思う。まるで禅問答に挑むような心境。だが、このエピソードの「解」を求めること、それが無いものねだりに近いものであったとしても、この問題を考え続けること自体に、意味があるような気がする。
自分を、何者かに換算することは正しいか。「くま一ぴき分は ねずみ百ぴきぶんか」が教えてくれるもの。
自分がウーフの父親なら、ウーフにどう語りかけるか。
前段でこんなふうに自分で書いて、自分で驚いているのだが、これも自分が「子育て世代」の終盤に差し掛かっている歳ゆえの、「くまの子ウーフ」という作品との距離感なのだろうか。
「くまの子ウーフ」の最後のエピソードがこの「くま一ぴき分は ねずみ百ぴきぶんか」なのだが、まさに本作の掉尾を飾るにふさわしいエピソードと言えるだろう。そして何より、この話で印象深いのは、ウーフのおとうさんの、ウーフに語るセリフである。
天気の日が続き、小さな井戸の水が干上がってしまったある日。
かたつむりも、かにも、体がカラカラになってしまい、川も干上がってしまう有様。おまけにウーフの家の、井戸水を吸い上げるモーターも故障して、おかあさんにミミちゃんのところで水をもらってきて、と頼まれたウーフ。
「いま、水をもらったげるからね」
りすのキキが、きいきい声でさけびました。
(中略)
「こまるよ、そんな大きなバケツじゃ、ミミちゃんちの井戸は小さいんだもの。ぼくらのぶんがなくなるよ。」
(中略)
「こまるなあ、くまなんか、いつもそうなんだ。」
と、キキは言いました。ウーフが子供のくまだからか、いばっていいました。
「山にいちごがなったって、かきやくりがなったって、くま一ぴきでぼくらの百ぴきぶんたべちまうんだ。」
(中略)
「いいよ、そんなら、いらないや。かたつむり一ぴき分と、かに一ぴきぶんの水だけもらうよ。」
ウーフにとっては、初めて経験する「世間の冷たさ」だったのかもしれない。しかし真正面から喧嘩することもなく、泣き出すこともない。淡々と、そんなに五月蝿いことを言うなら、いらない―とウーフは言うのである。よく考えてみると、これまでのエピソードでのウーフの行動とは、少し違ったウーフの姿が、そこにある。
引くところは引き、しかしかたつむりとかにの分の水はもらうという、きちんと自分で約束したこと、その一分は守っている。最初のエピソードで、鮒におどかされて、困り顔で家に帰ってくるウーフの姿を思い出す時、読み手は気付かされる。ウーフは、確実に作品の中で成長している。
帰ってきたウーフは、おとうさんに話す。
「くまなんか、たべるのものむのも、ねずみ百ぴきぶんだって、山のかきやくりも、くま一ぴきで百ぴきぶんたべちゃうって、ねずみのチチがおこるんだ。でも、ぼく、百ぴきぶん、のどがかわくよ。百ぴきぶん、おなかすくよねえ。」
「のどがかわいたかい。もう、水がでるよ。さあ、のみなさい。それから、ほかのひとにもわけてあげようね」
ウーフのおとうさんの言葉には、ウーフが語ったねずみのチチのことには、あえて触れていない。ただ、「ほかのひとにもわけてあげようね」と、静かに言うのである。あるべき姿を、誰かを非難するのではない形で教えること。この事は、殊に今の時代、大事なことなのではないのかな、と思う。
そして、このシーン。
「おとうさんは力もちだからな。ウーフ。」
「ねずみの百ぴきぶんよりも!」
と、ウーフはさけびました。
「くまは百ぴき分たべるから、百ぴきぶんはたらけば、いいんだ、そうだね、おとうさん。」
すると、おとうさんはわらいました。
「いいんだよ。ねずみは、ねずみ一ぴきぶん、きつねは、きつね一匹ぶん、はたらくのさ。だれかのなんびきぶんなんかじゃないんだよ。おとうさんはくまだから、くま一ぴきぶん。ウーフなら、くまの子一ぴきぶんさ。みんなが一ぴきぶん、しっかりはたらけばいいんだ。」
少しネタバレ、というか「新装版」を持っている方はおわかりのことと思うが、これは新装版の付録のかわいいリーフレットに収録されている「ウーフの名場面」の「おとうさん編」でも選ばれている箇所である。
大人になり、社会に出て、それぞれがそれぞれのフィールドで、つらい思いをする局面というものは必ずあるはずなのだけれど、往々にしてそうした、心に余裕のない時というものは、つい自分と他人を比べてしまい、あいつはのうのうとしているのに、自分はこれだけやっている、なのに何で今こんな思いをしているのか―というような思考に陥りがちだ。そういう感情は、例えば会社員ならば、同期のあいつは出世したのに、何で自分は―という、嫉妬にもつながりかねないし、そうした負の感情は、ひいては職場全体のパフォーマンスを低下させることだって、無いわけではない。
だれかのなんびきぶんなんかじゃないんだよ。
みんなが一ぴきぶん、しっかりはたらけばいいんだ。
もし職場で、何かがあって弱っている時、上司にこんな言葉をかけられたら、どうだろう。私なら、全幅の信頼を置いて付いていくだろう。
とかく、企業では仕事の属人化をしてはいけない、と言われてきた。それは組織の運営上、当然の要請ではあるのだが、一方で同時に人の個性を完全に無視して「誰かは誰かの何人分」とすっぱり割り切り、誰かの代わりは誰かで効く、というような「合理的」な環境が、本来的に不合理なものである「人間」が働くのに、本当に適した職場のあり方と言えるのか、どうか。
ウーフのおとうさんの語る言葉は、ふとそんな事まで考えさせてくれる。
大人の読み手だからこそ言えることだが、ウーフのおとうさんと呑みに行ってみたい、と率直に思う。ウーフの年回りから考えると、ウーフのおとうさんは私よりだいぶ年下になるかもしれないが、そんな事は関係なく、きっと私に多くの気付きを与えてくれそうな、気がする。
「くまの子ウーフ」の最後に描かれるこのエピソードが教えてくれるものは、「自分が何者であるかを知り、安心することができたなら、今度はどう自分の責任というものを全うしていくべきなのか」という、次のステップへの手掛かりなのかもしれない。
それは、この作品の主たる読み手である子どもたちは勿論、大人にとっても、改めて受け取っておくべき、大事な手掛かりのような気がする。
自分の中の「ウーフ」は、元気にしているだろうか
「くまの子ウーフ」という作品は、紙のボリュームとしてそれほど多いものではなく、大人が普通に読み進めれば数十分で読み切れるものだろう。しかし、読書感想文を書きながら、セリフなど丹念に追って読み返しているうちに、ほぼ一日たってしまった。それでも、ウーフの世界観に一日身を委ねていると、ほんとうにほのぼのとした、穏やかな気持ちになる。
ここまで書き進めてきて、まだ触れていないエピソードもいくつかあるのだが、すべてを書こうとすれば、それは却っていささか冗長なものになるだろうし、最後に「くまの子ウーフ」のあのエピソードにふれて、この読書感想文を締めくくることにしたい。
「いざというときって どんなとき?」のエピソードの中で、ウーフのおかあさんは、泥だらけになって帰ってきたウーフに、こう話す。
「りすでもきつねでも、いつもからだをなめて、きれいにしているでしょう。りすなんか、半日もしっぽの手入れをしていますよ。きたないと、いざというとき、役に立たないのよ。」
そう。いざという時のために、備えておかなくてはいけないのだ。
実家を離れ、社会人となって一人暮らしを始めた頃は、連日深夜までの残業など当たり前だったから、仕事の忙しさにかまけて、ついつい部屋の掃除や片付けなど、疎かにしていまいがちだった。
そんなある日、家の電話が鳴る。
その頃、親しくなり始めた女の子からだった。
「ちょっと良いワインもらったの。おつまみも作ったから、これから遊びに行っていい?」
いいよ!
嬉しさのあまり、出来もしないバク転をしようとして思いとどまった私であったが、それにしても、この部屋の散らかり方よ。
その時に、あの日、姉が見せてくれた「くまの子ウーフ」の中の、ウーフのおかあさんのあの言葉を思い出したのである。
「きたないと、いざというとき、役に立たないのよ。」
全くもって、ごもっとも。やはり、おかあさんにはかなわない。
* * *
冒頭で、ウーフについて、子供時代の、もうひとりの自分がそこにいるような気がする、という事を書いた。確かに、私の中にはウーフが住んでいるような気がする。自分の中のウーフは、もう子熊ではないし、十分に物の分別をわきまえているけれど、それでも時折、どうして?なんで?と私に問いかけてくる。その度にインターネットを使ったり、あるいは書籍を読んだりして、ウーフの質問に答えようとする自分がいる。時には、それまで全く興味を抱いていなかった心理学とか、自然科学とか、そういう分野の書籍にも手を付けたりする。
そしてある時に、新しく得た知識と自分の知っている知識が結びついて、そうだったのか、と納得できると、自分の中のウーフも一緒に「うーふー」と喜ぶのである。
しかし、仕事が忙しかったり、あるいはプライベートでもいろいろ立て込んでいたりすると、十分にウーフにかまっていられなくなることも、ある。
大人とはそういうものなのだ。悲しいけれど、社会経験を豊富に積んだがゆえに、もうなにもかもわかったつもりになって、自分の中のウーフを忘れ去る人も、きっといるだろう。
自分の中のウーフが元気なうちは、いくつになってもきっと「伸びしろ」はある、と思いたい。自分の中のウーフ。そしておそらく、そのウーフの事を、一般にはこう呼んでいる。いわく、好奇心、向学心、知識欲。
キナリ読書フェス。
課題図書と、自分の読みたい本と。
ウーフと過ごす週末。
幸せな時間だった。
(了)
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