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田舎ミニマリズム

私が田舎に引っ越した理由はもっとシンプルに生きたかったから。

本当に大事なものは何なのか、
本当に必要なものは何なのか、
を知りたかったから。
もっと本質に近づきたかったから。

部活動のメダルの色が、学校に張り出される順位が、SNSのいいねの数が、二重か一重かが、シャンパンの本数が、そんなに大事なことなのだろうか。

ミュージシャンの友部正人さんが仰っていた。
「私たちは処理できる以上の情報を得てしまっている。人間が処理できる情報の量は決まっている。」と。
本当にそうだと思う。だから、みんなパーカーおじがなんだ、風呂キャンがなんだと考えていたら、本当に大事なことを考えるキャパがなくなってしまう。逆に最適化されすぎた世界では、余計なことを考えるキャパが出来てしまうとも思う。

私の専門は教育哲学で、
ジョン・デューイは推しの一人。

デューイはそれはまあ色々なことを言っているけど、その中のひとつに、
「学びは実生活から離れすぎてはいけない」って言ってる。
私は「生活は自給自足の生活から離れすぎてはいけない」と思っている。

自然から隔離された生活

都会で暮らすと自然に触れる機会が無い。人工的に作られた自然は存在するけど、生活圏内で人の手が加わっていない自然を感じることは無い。
質感が全く違う。
北海道はいい。
クマや鹿のいる空気を感じて生きる。すすきのでさえキツネを見かける。

この記事でも書いたけど、コンクリートジャングルで生活していると、地球は本来自然豊かで、その恩恵を受けて生きているということを忘れる。
それはある意味、デューイの言う「実生活」から離れていることだと思う。本来の地球の姿から遠ざかり、人工物に囲まれて生きる。
自然を大切にという意識が生まれにくくなる。だから気候変動の深刻さも、生物の多様性が失われようとも私たちは何も思わない。

進みすぎた分業化が奪う想像力

狩猟免許を取った。色々申請して道具を揃えれば動物を撃つことができるということだ。
それを言うと
「動物を撃つなんてできるの?可哀想じゃない?」とか
「解体とかするってこと?怖い」とかって言われる。
でも、スーパーに並んでいる肉は生きている生き物を殺しているのに、ただ並んでいるだけだとそれを意識する機会も少ない。
分業化が進んだゆえに、プロセスや全体像を見ることがないから、想像出来なくなっている。その想像力の欠如がフードロスや大量生産大量消費を生んでいる一つの要因だとは思う。
今やいただきますやごちそうさまはルーティンと化した。自給自足に近い生活を送り、自分で生き物を狩って、捌いて食べていたらそんなことにはならないだろう。
自分が把握出来る範疇を超えたものを扱うから、手に負えない問題も増えていく。私たちにはその情報量を捌ける能力はない。

高度な技術が作り出す受動的人間

技術の高度化は私たちの生活を便利にする一方で、その仕組みを理解する機会を奪う。専門分野が細分化されることで、多くの人がその仕組みやプロセスを理解しきれていない。むしろ人間が技術に依存し、受動的になっている状況さえ生まれていると思う。
一体どれだけの人がスマートフォンの仕組みを、0からかぼちゃを作る方法を知っているのだろう。
私の推し:ジョン・デューイもまた、著書の中で

「教育が抽象的で生活から離れている場合、学習者は考えたり創造したりする力を失い、ただの受信者となる危険がある。」

『経験と教育』(Experience and Education)

学びが実生活から離れた抽象的な情報の蓄積に終わると、試行する余白がなくなり、学習者は受動的になるって言っている。


私は今、穏やかな田舎のスローライフを楽しんでいる。
あつ森みたいで最高だ。
一見、ゆっくりしているように見えるかもしれない。
でもそれは、余計なものに振り回されず、本当に大切なものに時間を使えているから。洗練された、クリアな生活。
余白ができたことで、深く考えて、選択できる余裕が生まれた。
全体的なスピード感は上がってると思う。

私はこの町にいる間に
身にまとった色々なものをそぎ落として
「思考のインナーマッスル」を見つけて鍛えたい。
鍛えて、どんなカオスな場所に行っても
軸だけはしっかりさせて、まっすぐ立てるように。

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