スピリチュアル系のアレルギー。
いろんなものが見えたり触れたり、話すことも出きる私ですが、スピリチュアル系の行きすぎた考え方には抵抗がある。
意味のないことに意味を持たせようとしたり、なに、意味なきゃ生きていけないの?ってくらいに誰か何かに認められようとしたり。
あなたは赦されてます、的な。
はっ。
鼻で笑ってしまう。
そんなもの、とうの昔に答えは出されてる。
cogito ergo sum
我思う故に我あり
余計なものを削ぎ落としていって、それでも私が残るなら、それが私の存在証明だ。
それ以上も以下もない。
私は生きている。
生温いんだよ。
生きるとは、もっと情動的で鮮烈なものだ。
誰かに赦されたいと感じるこの心も、誰かを望むこの心も、私の自由であっていい。
なんだか得体の知れないふにゃらかしたものに諭されてお涙頂戴解決するくらいなら苦悩はない。
そんなものは苦悩とすら呼べない。
生きもがいて掴み得たものしか答えと認めない。
人から与えられてる時点でそれ、あなたの答えじゃないから。笑
個性がないと嘆きながら量産されてるだけの優しさに染まりたいだなんてどうかしてる。
理解ができない。
それでいいの?
そんなんで足りるの?
私は信心深いところもあるし、なんならタロットなんかの占いも好きだ。
ただ、こと、生きると言うことに関しては、近年の「いやし系」や「すぴりちゅある系」の考え方に賛同しかねる。
ただの流行り病に浮かされて踊っているだけにみえるし、事実そうなのだろうと思う。
むやみやたら自己探求したからといって、そこにいつでも何かが有ると思うな。
人生は時として無情に無意味な出来事を眼前に落としてくる。
何が起きたかは問題じゃない。
どう生き延びたかを問いたい。
掘り起こした先に真の自分とやらが眠ってると思ってるならそれは幻想と言うものだ。
同じ様な芋を釣って喜びを感じるなら好きにしたらいいけど。
なんの話かって、寝覚めに面倒くさい記事を眼にしてしまったので、頭の中が面倒くさいことになった。
それでアウトプットすることにした。
それだけ。
おしまい。