真理の灯火
先日、ある集まりに行ったとき、宇宙の話になった。
物理学者や、科学者だとか、わたしはその手の分野があまり得意ではないが、
その人たちが、ビッグバンを研究し検証していく中で、やはり
最後のある部分において、どうしても解けないところがでてくるというのだ。
サムシンググレード。
世界で5人と選ばれていた何とかという学者さんが、テレビのインタビューで
『わからない』んだと言っていたそう。わからないから、面白い。
いいね~、そういうの好きだ。
たぶん、物理だろうが、化学だろうが、天文学だろうが、画家だろうか、踊り子だろうが、役者だろうが、ミュージシャンだろうが、
そういうことって、同じなんじゃないだろうか。
せずにはいられない、誰か神様かなにかなのかが、自分の手をくいくい引っ張っていく。
そして、せずにはいられずに、寝るのも食べるのも忘れて没頭し、
何かを作っていくんだな。
その何かは、わからないんだ。なんのためにさせられているのか、
自分の身体から湧き出る情熱には、違いないのに、
情熱を燃やさせているものの正体は、わからないんだ。
そして、突き詰めて、研究して、没頭して、何年も何年も、
命を賭けていくうちに、
だんだんに、その正体が見えてくるんだ。
自分は、このためにさせられていたんだって、
そこから見える世界。
きっと、その正体は、360度方向に扉があるもの、
その扉は、千差万別、十人十色で、
光り輝いている。
踊り子の扉、科学者の扉、天文学者の扉、自由人の扉、役者の扉、
その扉から、入りながら、
その360度をくるりと囲んでいる大きな光の球体の中へと
進んでいく。研究していく。突き詰めていく。
わたしたちは、その大きな球体の中に何があるか、
どうして、日々の小さな出来事の中に、その大きさをみることができるか、
小が大を兼ねている世界を、
真理と呼ぶのかもしれない。
あらゆる扉から入ったものたちが、いつか同じ真理の扉を発見する。
夢中になるほどに、それが小さき宇宙の礎に思う。
そして、球体の真ん中には、何があるのだろうか。
わたしも、まだ扉をあけたばなり。
『わからない』
わからないと言える世界って、素敵だ。
今日も、明日も、あさっても、繰り返される月日の中に
情熱を傾け、わたしをこの世界へつなぎとめ、
命燃やすこと与えてくれている
生活の中にある小さな中にある、大きな何かの存在。
人は、それを追いながらも、
いつしか、自分の身のうちに、その大きな真理の灯火を
みているのかもしれない。