余命宣告された母を巡る兄と私の物語〜激突編、まるでドラマのワンシーン?!
写真は、自宅近くにある土手から撮影した夕焼けと富士山とスカイツリー:本人撮影
スキルス性の癌で余命宣告された母。その母の病室にも来ない兄。
そして、その兄を病室で待ち続ける母を思い、
私が取った行動とは・・・
母が余命宣告されてからも、母の病室に顔を見せようともしなかった兄。その兄が主治医との面談に顔を出した日…私は病院の廊下で兄とバッタリ出くわした。電話にも出てくれず…訪ねて行っても居留守を使われて話もできなかった私にチャンス到来。
病院の廊下で、話を聞いてもらおうとした私に兄は…「お前と話すことなんてない」「妹だとも思ってない」と話すことさえ拒否。私は、追いかけながら兄のワイシャツを後ろから胸ぐらを掴むように引っ張り、兄に向き合ってもらおうと、なり振り構わない行動に出た。必死だった。そして"母が今、誰よりも求めているのは兄であり、母の命ある間に母に付き添い共に時間を過ごして欲しい” と訴えた。でも兄は、何も言わず立ち去って行った。
「あんたって最低!」と兄の後ろ姿に叫んで
「もういいや…」と諦めかけた時、私の脳裏に死を目前にした母の顔が浮かんだ。
ここで諦めちゃダメ!
そう思った私は、病院の駐車場まで兄を追いかけ車に乗り込み運転を始めた兄の車の前に大きく手を開いて立ちはだかった。そう、あれはテレビドラマのワンシーンのようだった。周りの目なんか気にする余裕もなかった…。そして、車が止まると兄の車のサイドミラーにしがみついて、
「私の話を聞かないのなら私をひいてから行って!」と叫んだ。
その時の兄の顔は、ビックリ仰天って感じ。
その兄へ、「自分の親の命が消えようとしてるのに一体何をしてるの!私が嫌いなら喋らなくていい、でも、母は違うでしょ!もうすぐ死んじゃうんだよ!」と思いの丈をぶつけた。驚いた兄は何も言えず、私の話が終わったら車は走り去った。
その後…私は自分の車の中で過呼吸になるんじゃないかと思うくらい大声で泣いた。車の中という泣き場所があったことが本当にありがたかった。
そして、泣き顔が元に戻るまで待って、何事もなかったかのように病室に戻ったけど、何も知らず兄を待つ母の顔を見るのが本当に辛かった。
私は東京、兄は熊本と、私たち兄妹は離れた場所に暮らしていたので、私は東京に戻ってから兄に手紙を書いた。その内容は、"兄が母に対してひどい態度を取り続けるなら、私が父に申し出て、家を継いで財産も全てもらうから。それが嫌なら母の所に行って" という最終手段である悲しい内容だった。でもその時は、兄を動かすにはそれしかないと感じた。
父は、田舎ではあるけど事業を興していて、それなりの会社を経営し財を為していたから、兄は家を継ぐことを強く希望しており、会社でも取締役に就いていた。それが奪われることになれば兄は動くと考えた。それが効果的面で、兄は母の所に行くようになった。それは、母が亡くなる2週間前で、母は最後に兄に優しくしてもらいとても嬉しそうだった。兄が母の所に行くようになった本当の理由を知れば悲しくなるけど、それでも母が喜んだならそれでいいと思えた。
この後、母親は自ら命を絶ち選び旅立ったけど、兄と交流が出来て安心したのかな。
でも、なぜ私をここまで嫌うのか…特に喧嘩をしたこともなく全く心当たりがなくて。
なぜ母を避けて会おうともしなくなったのか…
この後、これまで兄との関係を諦めてきた私が、母の病気を機に兄と向き合うことになって色々なことに気づくことになった。この気付きについてはまた別の章にて。
これは兄と私のほんの一部の物語。この後、紆余曲折あり兄妹間での裁判にまで発展することになるとは、この時、知る由もなく。
韓国ドラマ顔負けのストーリーはここから始まります。
◆2013年11月14日の日記。
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