挑戦と逃避は、きっと世界の表と裏なのだ
挑戦という言葉が好きだ。
既存の枠を打ち破り、固定された観念を捨て去り、未踏の地を夢見て志向する。
立ち向かう問題に大小はあるかもしれないけれども、意気溢れるこの言葉が、好きだ。
けれどもふと立ち止まって、少しだけ考えてみる。
あの人の挑戦を、前から見るだけではなくて、後ろからも眺めてみる。
前から見たら、あの人の歩みは前進そのものだ。辿りつく場所は分からないけれども、自分を信じて、未来に責任を持ってその道を行くその姿は、凛としている。
けれども後ろから見たら、あの人の歩みは、今いる場所からの逃避に見える。私はここに居るのに、あの人がすべきだったこともここに在るのに、あの人は全て捨てて何処かへ行ってしまった。
挑戦は、挑戦であるが故に、逃避でもあるのだろう。
あの人は、現在から逃げ出し、未来へ挑むのだ。
それは良いことであるし、悪いことでもある。
結局、どこから眺めるかということなのだ。
前へ行こうとする人の、先に居るのか、後ろから眺めるのか。
あるいは、隣を歩くのか。
挑戦は常に、在りし日との離別だ。
歩みを決めた理由がなんであれ、挑戦は、今居る時間から、空間から、剥離してしまうことと不可分だ。
剥がれ落ちた鱗の一握りは、きっと龍になるのだろう。
そして龍にならなかった鱗は、すぐに腐ってしまうのだろう。
挑戦者は、死を身籠もる。
それでも、いや、だからこそ、挑戦が好きなのかもしれない。
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