言葉が感情を追い越す
私の部屋を見事なスクラップにするのにどれくらいの時間がかかったのか、私にはわからなかった。しかし小男がローレックスの文字盤を眺めた時の満足そうな顔つきからすると、それはおそらく2LDKのアパートを破壊するのに要する標準的なタイムに近いものだったのだろうと私は想像した。世間には実に様々な種類の標準値が充ちている。
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーワンド」 村上春樹
嬉しいという気持ちがあり、「嬉しい」という言葉が生まれる。
悲しいという気持ちがあり、「悲しい」という言葉が生まれる。
そんな風に、僕らの中には感情が先に在って、それに追いつくように言葉が紡がれるというのが、あらゆることの始まりだと思う。
例えば水面に石を投げた後に波紋が広がるように。
石が投げられなければ、水面が揺れることもない。
けれども、そうして表現される感情は、どうしても単純になりがちだ。
海を見たとき、花を見たとき、仮に同じような喜びを感じたとすれば、それを表現する言葉は一つに収束してしまう。
石の投げ方は違うのに、喜び、という一つの種類の波紋しか呼び起こされない。
石の数だけ波紋も異なればいいのだけれども、石を投げるという行為には、あまり世界に変化をもたらす余地がない。
もっと感情の彩度を。明度を。光度を。
そう祈ったとき、言葉が感情を追い越し始める。
言葉は感情を待たない。
それまでは、言葉は感情を反映する鏡だった。
けれどもここでは感情が、言葉を反映する鏡となる。
秋の日の朝に、部屋で何となく感じた高揚の感情は、「幸せ」という言葉に収束する。
「秋の日の朝に、新しいコーヒー豆を挽く幸せ」という言葉は、「秋の日の朝に、新しいコーヒー豆を挽く幸せ」という感情に収束する。
前者は感情に言葉が導かれ、後者は、言葉に感情が導かれている。
そして後者のほうが、結果的に、より詳らかな感情が生まれ出ている。
水と波紋の例に戻れば、まず綺麗な波紋を見つけてから、それに合わせて石を投げ込むということだ。
そうすれば波紋は様々な形をとるし、石の投げ方だって覚えられる。
何の話だったか。
僕が考えていたのは感受性についてだった。
感受性を育てるためには、あらゆる美しいものに触れなさいと、よく言われる。それは音楽であったり、美術であったり、とにかく美しいものだ。
けれども、その修行をするにあたって、それを感情を先行させて行ってみても、大半が「とても美しい」という言葉に収束してしまうのではないかと思うのだ。
けれどももし、その人が多くの表現を、形容を備えていたら、どうだろう。そして、自分の感情ではなく、それらの言葉を先行させて鑑賞を行ったのであれば、どうだろう。
きっと、感情に頼ったときよりもずっと、より鮮やかな感情が呼び起こされるのではないだろうか。「冬の夜、雪の下で咲く花のように、冷たく美しい」なんていう風に。
何の話だったか。
僕が考えていたのはフェルメール展についてだった。
行く前にすること。
それはフェルメールについての予習をすることではなく、サマセット・モームでも読んで、少しでも言葉を蓄えておくこと。
そんなことを、思ったのだった。
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