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タムタラの墓所を歩く

 青狢門を抜けると私の視界は忽ちに木々で覆われた。他国であればその一つ一つに銘がついていてもおかしくないような巨樹の群れを眼前に迎え、改めてここが森都なのだと思い知らされる。天にも届きそうな木々の上部にまで及んだ苔が言外に悠久の時の流れを語る。遠目に獣の姿を確認した私は腰に杖が間違いなく差してあることを確認し、チョコボに跨った。

 夜の森は意外にも静かだ。耳に届くのは草の間を縫う何者かの足音だけ。揺らめきもせずに確かに道を照らす灯火を標に私は西の街路を進む。
 翡翠湖に端を発して中央森林を走る 2 つの川はそれぞれ、西の葉脈、東の葉脈と呼ばれている。葉脈を横目に見ながら、さながら私は葉上の虫だろうか、などとエオルゼアの上でかさかさと動く自分の姿を想ってみる。強ち間違いとも思われないのがおかしい。

 路を進むとベントブランチ牧場に辿り着いた。目的地ではないので通り過ぎようかと思ったが、同行者が好物の匂いに誘われまいと意識的に集落から目を逸らせるのがいじらしく、少し中を歩いてみることにする。
 入り口で買ったギサールの野菜の袋を片手に人々と話をしていると、どうやらチョコボとは元々この森に住む存在ではないらしいことを知った。先の霊災の際に彼らがイシュガルドから逃げるように移動してきたのを受け、森の精霊に許しを得て飼育を始めたのがこの牧場の起こりだとか。餌を啄む彼らの姿からそんな災厄の匂いを感じないのは、この牧場に住む人々の努力の賜物なのだろう。

 牧場の人々に別れを告げ、さらに南西へと歩みを進める。ガルヴァンス監視哨に差し掛かったところで現れた二股の道で足をさらに西に向けると、両脇が石で固められた街道が現れ、目的地が近いことが知れた。誰かへの鎮魂と思われる小さな灯と慎ましやかに咲くラベンダーを横目に見ながら石畳を少し行ったところで、今回の目的地に辿り着いた。


 タムタラの墓所。旅の始まりとしてここを選んだのに強い理由があるわけではない。強いて言えば冒険者だったあの頃、暗く悍ましい雰囲気に足がすくんだ思い出にいつか決別したいという気持ちがあったから、だろうか。

タムタラの墓所前

 ここは現在もなおグリダニアの民に使用されている墓所であるが、その起りを辿れば、およそ 800 年以上も昔、第六星歴まで遡ることになる。
 グリダニアの起こる前、現在の黒衣森にたどり着いたエレゼンとそれに続いたヒューランの一族は森の精霊の大いなる拒絶を受け、地下に逃げ住まわざるを得なかった。この時に生まれたのがゲルモラ都市国家であり、エレゼンとヒューランの一族は実に 300 年ほどをこの地下都市で過ごすことになる。タムタラの墓所が建造されたのもこの頃だと思われる。

 彼らが地下から出る契機となったのは、森に住んでいたイクサル族が精霊に怒りを買ったことに端を発する。何故イクサル族は精霊の怒りを賜ったのか、ゲルモラの民がイクサル族とどう関わったのか。この頃の詳細は歴史の闇に消えている。しかし一つだけ分かるのは、この事件の後、ゲルモラの民は守護者として黒衣森に住まうことを精霊に許され、300 年の地下生活に終止符を打ったということだけだ。
 この時代のゲルモラの英雄がガルヴァンス。タムタラの墓所は彼の亡骸を納める場所である。

 かつてはどこかの教団がこの墓所を根倉にしていたようだが、今は英雄の眠りを妨げるものもいない。均衡を取り戻した静謐な空間に踏み入れることを詫びつつ、私は墓所に足を踏み入れる。

 程なくしてガルヴァンスの墓に辿り着く。しかしそれは簡素というよりはむしろ粗雑な、とても王の眠り給う場所とは思えないものだ。

ガルヴァンスの墓

 ガルヴァンスに関する情報は少ない。しかし槍の一振りで十の敵を薙ぎ払うほどの豪の物であったという伝説が残っていたり、ここに至るまでにあった監視哨がガルバヴァンスの名を冠していたことなどから、名を馳せた王であることはある程度疑わなくて良いように思う。しかしだとしたら、この墓前に広げられて然るべき敬意が無いのはどうしたことだろうか。

 王の過去に想いを馳せて墓所を歩いていると、もう一つ奇妙なことに気づく。メナ家の眠るとされる場所は、明らかに王のそれよりも華やかに作られているのだ。

メナ家の墓

 ゲルモラで何があったのか分からない。ガルヴァンスの最後がどうであったのかもわからない。しかし英雄とも絶対王とも呼ばれたガルヴァンスのその人生が陰りない燦然たる王道と言い切れなかったのではないかという想いがどうしても拭えない。


 遥かなる過去を夢想しながら、私は墓所を出た。木々の間で和らげられた光が墓上に注ぎ、その上で育つ草花が風に揺れている。

 過去を全き形で知ることはできないし、過去も私たちを欠片たりとも知ることはできない。それは紛うことなく分たれた二者だろう。しかしだからと言って、彼らを、その時代を知ろうとすることに意味がないとは私には思われない。彼らの欠片を知った時、私は歓喜する。彼らの何物も知り得なかった時、私は落胆する。つまり私は決して触れ得ない彼らに触れようとする時、彼らに強く突き動かされるのだ。有りうべくもない二者の間の絆をか細くも繋ごうとすること、その過程自体が私には愛おしくてたまらない。老人の趣味と動機としては、十分だろう。

 さて次は何を見ようか。そうひとりごちて、私は再びチョコボに跨った。

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