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『俗物にとっての現実の享楽は感能的な享楽だけである 』 /* ショーペンハウアー */

 俗物にとっての現実の享楽は感能的な享楽だけである。すなわち感能的な享楽によって 填め合せをつけているわけである。したがって 牡蠣 にシャンペンといったところが人生の花で、肉体的な快楽に寄与するものなら何でも手に入れるということが、人生の目的なのだ。
 この目的のために何のかんのと忙しければ、それでけっこう幸福なのだ。
   『幸福について』ショーペンハウアー


 この世の楽しみというものは、およそ肉体的なものと精神的なものとに区別できるようである。

 美食を求め美女を求める欲望は肉体的な目標に拠るものであり、対して名声を求めたり高潔な生き方を目指そうとする欲望は精神的な目標に拠るものだ。


 この2つに優劣をつけるつもりは、僕には無い。
 社会通念からこれらの欲望間に品性の差こそ付けられど、僕らが人間である以上、いずれの本質を否定することもまたできないはずだ。


 けれどもどのような人々がどのような楽しみを好むかを考えるくらいであれば、不遜には当たらないだろう。


 ショーペンハウアーは、俗物にとっての享楽は感応的なものだけだと述べる。いわゆる酒や女といった類の官能を指すと読んでいいだろう。


 人は趣味性を、嗜好をこそ持つべきだというのは落合陽一の言葉であるが、ショーペンハウアーの論を借りれば、その趣味性によって当人の人間性が測れるということになるだろう。


 性的な欲求の達成をこそ目指す人間と、無限の教養の獲得を目指す人間がいたとして、それは嗜好を確立しているという点でどちらも価値ある生を送っていることは間違いないと思う。
 けれどもそこには、両者の生の質を区別するような大きな隔たりがある。


 低次と位置付けられる欲求も、その本質を考えればむしろ上位の欲求よりも重要ともいえる。
 けれども誰もがそれを嗜好するということは、そこに希少性はないということだ。

 

 もし自らが社会存在として上位に位置することを志すのであれば、自分の欲望、嗜好の向かう先をもある程度コントロールしなければならないのだろう。

 美女の尻を追いかける人と賢者の尻を追いかける人。
 どちらも人間的に面白そうではあるが、どちらが凡俗かと考えると、すぐに答えが出てしまう。


幸福について―人生論 (新潮文庫)
新潮社


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七色メガネ
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