個性について思うこと
僕たちと個性
あなたの個性を発揮しよう。あなたの可能性は素晴らしい。
今や外に出れば、どこにだってこんな言葉が転がっている気がする。
言葉にされていなくても、社会全体にそんな雰囲気が広がっていることを感じる。
けれども僕は、そんな言葉にどうも疑問を覚える。
全ての人が個性的で素晴らしいなんて、僕にはなかなか思えない。
大学の広告は僕らを勤勉で個性に満ち満ちた人間として絶賛してくれるし、転職サイトは僕らの本当の姿の発見を促してくれる。
けれども僕らに、眠っている個性なんてあるのだろうか。
学校か会社に行って、帰ってからはスマホかゲームに興じる僕らに?
個性のハードル
僕たちは何を以て人を「個性的」というのだろうか。
何か好きなものがあったり、趣味があったりするだけでは「個性的」と言うには足りない気がする。例えばテニスが好きな人を個性的だとは言わないように。でも世界のあらゆる布団を集めているとか言われたら、それはもう間違いなく個性的だと思う。
そう考えると、個性的っていうラベルは、実は付けるにあたってのハードルがとっても高いもののような気がする。他者との重複が少ない、っていうのが第一義か二義くらいになるだろうから。
すると、本来的には個性的っていう属性は皆が手に入れられるものでは無いのでは無いかと思う。というか、「皆」っていう概念が「個性的」っていう言葉とはどうしたって矛盾する。
けれども多分社会は、皆が個性的で在れると思っている。
僕は、それはきっと間違いだと思う。
オルテガと個性
哲学者オルテガさんの言葉にこんなものがある。
「少数者とは、特別の資質をそなえた個人もしくは個人の集団であり、大衆とは、特別の資質をもっていない人々の総体である。」
ここだけ切り出すと選民思想っぽいけれども、そういうわけではなくて、本来社会を構成している大多数の人々は大衆、即ち特別の資質、個性を持っていないのだっていう考え。
これは割としっくりくる。意識的にしろ無意識的にしろ、他の人と違うベクトルで努力を重ねる人が(絶対的にも相対的にも)少数者になるのであって、そこに至って初めて、個性的っていうラベルに相応しい人になるのではって思う。
今の社会ではきっと、個性っていう言葉が濫造されすぎている。
個性
人と違うこと、それが個性だとすれば、それは簡単に手に入るものではきっと無い。
けれども誰の思惑か、どうも個性っていう言葉の価値が下がってきている気がする。みんなで個性的になろう、君には隠れた個性がある、なんて。
僕らはきっと、時のまにまに生きているだけでは個性的になんてなれない。その称号は、意識的に目指した末に獲得されるものなのだとおもう。
僕も個性的って言われるように、努力してみよう。
この決意自体は、無個性だろうけれども。
2018/06/10
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