見知らぬ男性に身体を触られる事・触られても平気な事
2018.11.10
タンザニアの友達から、フェイクの婚約指輪をしていないと女は一日に何度もプロポーズも受ける、という話を聞いたことがある。
私と同い年の彼女が、今までで受けた(見知らぬ男からの)プロポーズは数えきれないものらしい。だから、必ず左の薬指にはお守りを。彼女は、それがタンザニアではマストなんだ、と笑っていた。
彼女は、今はアメリカにいるけれど、H&Mで数ユーロで買ったという指輪をまだ必ず持ち歩いているらしい。それがないと、なんとなく不安だと。
彼女に小さく共感している自分がいた。私も実はアメリカにいた時、常にコンドームを持ち歩いていたから。あの小さな袋はあまりにも弱々しく、いざという時は本当の保護にならない事は分かっていた。でも、お守りだった。
ロンドンに来て、二ヶ月以上経つ。
前回、ロンドンに来たのは二十の時。演技を学ぶために、一ヶ月短期留学をした。
二十三の今、また私はこの場所にいるわけだけれど、二十の私が感じなかった恐怖を、今感じている。
正直、ロンドンの印象もこれによって大きく変わった。
頼んでもいないお酒とご飯を買ってきて、キスするまで離れないと言ってきた男がいた。
戯曲を書いていると、タイピングしている手に三度、キスしてきた男がいた。
カフェで突然、頭や背中を撫でてくる男がいた。
パブやバーのようなお酒が絡まない場所でも、女性として「消費」された経験が自分の中でも衝撃だったし、ショックだった。日本で一度もこんな経験をした事がない。唯一経験があるのは、電車の痴漢くらいだ。痴漢の方が、している事は卑劣で、触れられている部分はもっと過激かもしれない。電車で触れられたのは性器で、あの男が触れてきたのは、ただの頭と背中だ。
なのにどちらの方が嫌悪感が強いか、と聞かれたら確実に、あのカフェの男の方だ。
彼はトイレに立つたびに、私の横を通り過ぎて、背中と頭を二秒か三秒触り続けた。
最初は、間違って触れてしまっただけだろうと思った。でも彼はそれを三往復繰り返した。三回目で耐えられなくなり、席を立った。どちらも女性として消費されたことに変わりはない。でも、私はあの時、一瞬だけ、自分が娼婦のように思えた。痴漢された時は感じなかった心のざわつきが確実にあった。
どうしてだろう。今、書いていても分からない。
もしかしたら、彼は堂々と、公共の場で、触ってきたからかもしれない。彼の「この女なら、触ってもいい」という意識は驚くほどに清々しく、堂々としていた。彼にとって、私を触ることは当たり前にしてもいい事であり、そこに罪の意識の欠片なんてなかった。
一瞬だけ見たその顔は、笑っていた。
席を立ったあと、不思議な気持ちになった。
怒りもあったし、悲しくもあった。けれど、実際、そこまで怒っていない自分がいる事にも気付いた。
痴漢にあった時も、下着の上から一駅分、ずっと撫で回されていたけれど、その手を振り払ってから十分後には忘れていた気がする。ただ、友達に、「痴漢されたむかつく」とラインしたくらいだった。「こういう事もあるかな」と思えてしまう自分も心の中に確実に存在している。
それに気づいた時、恐ろしくなった。
十四の時、二十も上の男に好きだ、と言われて本気で死にたくなったことがある。それは好きでもない恋人でもない男から性的に見られたという事実からのショックだった。心の底から気持ち悪いと思ったし、その嫌悪感で眠れない夜もたくさんあった。
あの衝撃が、少しずつ薄れて来ている。
今では、「そういう事もある」で済ませられるようになっている自分がいる。
それが、とにかく怖い。
もっと怒るべきだし、叫んだり、泣き喚いたりするべきなのかもしれない。それなのに見知らぬ人にキスをされようが、性器を触られようが、少し肌を見せただけで性的だと言われようが、セックスさせてくれ、と恋人でもない男に頼まれようが、女性として生きるってこういうことだよね、と認められてしまう自分がいる。
もはや、嫌悪感さえも感じず、当たり前のことで、はいはい、と流せるようになっている。
それでショックを受けたり、泣いたりしない。さらに、こんな事を書いていてなんだけれど、心の底から怒っているわけでもない。
死ぬほど気持ち悪く、この世に順応し、対応している。
自分の体に無粋に触れて来た男性よりも、その頰を叩いたり、嫌だと大声で叫ぶ事をしなかった自分への怒りの方が強い。
それは勇気がなかったから出来なかった、というより、受け入れたからだ。
女性の価値=性的な価値と信じている男と女に死ぬほど出会ってきたな、と今振り返ると思う。
だから永遠にこの暴力は消えない。
男性からのそんな暴力を、女性が受け入れる事が出来るようにこの世はよく出来ていると思う。
それは精神的にもだし(それが自分の価値だと女性が勘違いすることが出来たりする)、蔓延しすぎている事によって、もはや一般化している事にもあると思う。
それが悔しい。何かに守ってほしいと切に思うのだけれど、誰がこの身体を守ってくれるんだろう。
そして、最終的に出る結論は自分で自分の身を守るしかない、という事。
いつも持ち歩いていた、小さい、すぐに破れてしまいそうなコンドームの袋を思い出す。
ああ、あんなもの、弱すぎる。
どうして、街を歩くだけで消費されて、また消費されることを受け入れてしまうんだろう。
どうして、そんな消費や暴力が、この世にうまく存在し続けるんだろう。
フェイクの婚約指輪のような「保護」がやっぱり女性は永遠に必要なのだろうか。
話がたくさんずれてしまったけれど、ロンドンに来てからそんな事をずっと考えている。
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