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過去の私も私だものね


それの題名は言われた言葉で
「あなたは学校の先生に向いてるよ」
でした。

「あなたは学校の先生に向いてるよ」
と言われたことがあります。

お勉強はからきし駄目なので、私は先生にはなりませんでした。


誰かを育てたり

導くことが

どんなことか たまに真剣に考えています。



「甘いのと、優しいのは違うんだよ」

と昔、知り合いだった看護士の兄さんは、私に言いました。

「善意でも 患者さんが出来ることまで助けてしまえば

それは いい結果を生まない」

「俺は勘違いしてたんだ。やったから喜んでくれる。って思ってたけど、逆。喜ばれたくてやっちゃってたんだ。それは自分が気持ちいいからするだけの、後先を考えていない自分勝手な行動なんだよ」


ずしりときた言葉でした。聞いたのは10代の時。

家族や恋人ならば

喜ばれたくてやっちゃっても なんとかなるでしょう。

でも お仕事は違います。

自分の言葉や、振る舞いすべてに責任があります。

自分が思いもしないことを
人は考えています。


丸が四角いかもしれない。


いつだって冷静に
柔軟に
とらえてゆく必要があります。


私は 接客業の人間です。

声のトーン、一つで

相手への印象が変わることを知っています。

返事のタイミング、一つで

相手の逆鱗に触れたこともあります。


そして 冷静さを失えば 更なる失敗を生むことを知っています。



大人を相手にするだけでも大変なのに

理解力が伴わない小さな子を相手に

物事を教える 先生という職業は

なんて大変なのだろう。と思います。



たまにこうして 真剣に考えて


もし 周りの誰かが落とし穴に落ちた時に

一緒に落ちないように

手を伸ばして引っ張りあげて

歩けることを教えられるように。


そんな人であろうと思ったりしています。



否定はしない。
でも すべてを認めはしない。


あくまで


私は私であり

誰かは誰かなのです。


私の物語が、誰かの物語にならないように


誰かの物語は、私の物語にはけしてならないから

誰かの物語を勝手に自分の物にして

誰かの気持ちを無視してしまわないように


わたしは 何時だって

わたしの世界から

誰かの世界を覗きます。


そんなこと 考えます。

という 私の話。

2012年頃の私

り、、立派かっ!!
自分の心持ちが清くて震える、くたびれた私。

いや、今だってそう思っている。
何時だって「私は私」であると同時に「誰かは誰か」なのである。

しかし当時の私はもっと凄かったのだ。

落とし穴に落ち続けた私は、落とし穴に落ちる絶望も、そこから自力で這い上がる虚しさも、その後の温かな世界が傷に染みることも、それでも歩くことができるという喜びも、近いところで体感してコレを書いているのであるから偉いと思う。

私には少し遠いから、いくらだってこういう事を書けるだろう。
褪せているものは優しく映るのだから。
重ねて、解して、年月が経った。

しかし、2012年の私はやっと、とんでもないボロボロ人生から脱出したばかりだ。まだヨタヨタとしているところで、この思考で居るんだから、私は私を褒めてやりたい。

あなたのその思考はきっと、あなたや周りの糧になる。


何時だって、昔から、私はずっと私なのである。
これより前の激しい嵐の中でさえ、私は私だなぁと思うのである。


私の強みは、私をあまり見失わない事だなと感じた朝。


さぁ仕事である。
…何やら、売り場が大変なんだと連絡がきていた………おお…がんばるぞ

※ちなみに過去の文中の兄さんはアダ名のようなものであり、私に兄はいない。

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koedananafusi
サポート設定出来てるのかしら?出来ていたとして、サポートしてもらえたら、明日も生きていけると思います。その明日に何かをつくりたいなぁ。

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