しっかり立ってるのに、見てて不安になる人がいる事があるって感覚の話。
しっかり立ってる。
物理的な話じゃなくて、精神的な話。
すごい前向いてんねぇ。
偉いねぇ。
そう言えば、相手はハキハキとした口調で
えぇ!いま調子いいんです!
道がしっかり見えてるんですよ!
あ、わかってます!油断なんてしてません!
と言う。
私は言いしれぬ不安に襲われる。
周囲の人間が取り囲み、楽しそうな空気が生まれているのに、満ち満ちに満ちてしまったその場所にはソレが入れずにいる。
だから、楽しそうな空気は周囲にだけ伝播して溢れている。
私は考える。
たぶん、私のこの言いしれぬ不安を口にして伝えても、満ちてしまったものはそれを受け取れない。
それに、もし、隙間があったとして、私のはただの老婆心というやつではないだろうか。
私が読み違えているだけで、進む力もきちんと蓄えてあり、尚且つ本人が言うように、見極めも出来ており、未来は無数に枝分かれしていることなど、とっくの昔にしっかりハッキリ認識しているのではなかろうか。
私は妬みの嫉みの心が少いないとはいえ、進む人にそれを抱いての不安や言葉ではないか。
私は考える。
私の世界は狭くなっていないか。
それでも、触れたほうがいいと思った時、私は言葉にすることがある。
満ちた人は振り払うとか、より、作り笑顔でこちらを見ることが多い。
どう対処してきても、所作は丁寧だが、そこに渦巻く怒りや恐怖心、何か一つの考えに囚われた空っぽさ。そういうものが滲んでいる。本人はそんなつもりはないだろう。
むしろ、私のほうが厄介な羽虫として捉えられる。
私がそういう世界にいないというだけで感じるもので、その人達にとってはそれが、すべてなのかもしれない。
それでも、言葉が出ようとしている。
だからこうして書いている。
たとえ見えている人に届かずとも、緩く遠くカーブを描くように、同じような誰かには届くのかもしれないと、私は思う。
正面からいくと、疲れるし傷つけ合うことになる。
正面からいかないなんて、卑怯だというのもわかるが、生身で台風に向かっていくこともあるまい。
家を挟んで、風が鳴き、家を挟んで、雨粒の声が響く。そういうくらいでいい。その中で、感じ取ろうとしたらいい。
これは一枝に過ぎない。
無数の枝葉の一枝に過ぎない話を私はしているんだ。何時だって。
立上がっているのが凄くて、偉いんじゃない。
もちろん、それが出来ているのは努力の結果だから、誇ってもいい。
けれど、囚われてはいけないよ。
囚われることと、強く信じる事は表裏であり
何時も自分はどうなのかよく見ていなくてはならない。
特に白黒ハッキリ付けている時は。
私は白黒の間の灰色が多いんだ。
エネルギーが豊富なほうではないから。
それに、エネルギーを生むために、どれだけを犠牲にするか、それを背負えるかどうか、見極めるのに灰色の世界は役に立つ。
強い光も、真っ暗な闇も、目が眩む。
臆病だと笑われるのはいい。
私をそう、笑えるのはいいことだ。
己の白や黒に染まらないままに、私を笑うのは構わない。
それは力の差であり、当たり前のことだ。
問題は、口をへの字にまげたり、憤ったり、揺らいだりするモノ達だ。
そういう時は一度、灰色に戻っておいで。
光と闇の、どちらもよく見てご覧。
どちらもそのものでしかない。
賞賛したり、忌み嫌ったりするものではない。
そのものなんだよ。
どちらも素晴らしい友になる。
どちらも危険な敵になる。
そういうことなんだ。
そしてそれはいつも共にあるだろう。
やはり、上手く言葉にはなりきらない。
そもそも、もしかしたら、私が言葉になどしなくとも、他の人はみな理解し、私などより上手にやっているのかもしれない。
そうなら、私の言葉など、なんの役にも立たないかもしれない。
そんなふうに思う。
しかし、葉が落ちれば土になる。
様々な物事は分解され、また違う形になり、世界は流れていく。
私はそれを知っている。
だから今日もこうして書いたのだろう。
サポート設定出来てるのかしら?出来ていたとして、サポートしてもらえたら、明日も生きていけると思います。その明日に何かをつくりたいなぁ。