『みんな』という防御壁を考える
『みんな』って言葉は防御壁。
勿論、違う使い方もあるけれど
今回は防御壁になってる時の『みんな』の話。
私はどちらかというと『私』が多いと思ってる。
私の防御壁は私なのだ。
『みんなが好きだよ』
とか
『みんな幸せになって欲しい』
とか
『みんな』ってつけるとユルユルになるの。
のしかかるものが、軽くなる。
潰されちゃわないように、持てないぶんを『みんな』に任せてるんだよ。無意識に。
『私』にするとね、その時元気じゃなかったり、色々あったりすると、あっという間に潰れちゃったりするのね。
小さいぶん、持つ量がおおくなる。
でも、『みんな』も万能じゃないから使い方を間違えると倍の重みがのしかかって来る。
どれが良いとか悪いとかじゃなくて、言葉ってそういうもの。
防御壁もね、ちゃんとメンテナンスしないと倒れてきて下敷きになる。
その時の重さは『みんな』でも『私』でも変らない。重たい。大なり小なり怪我する。
そうなると大変だからね。
たまにどうかなーって考えてみるの。
『みんな』って言う時の防御壁大丈夫かな?
『私』って言う時の防御壁大丈夫かな?
言葉は形があるし、意味もだいたい決まっているけれど
それに乗る心はちがうの。
透けて見えたりしない相手。
心って難しくて面白いね。
電子の海は肉体からの情報がないから
不安定なものだけど
縛られないから私は好きだよ。
これ、下書きしたの数日前なの。
誰の記事を、読んで思ったんだっけなぁ…フォローしてない人なのは確か。
でも、全く知らない人ではないはず。
忘れちゃった…。
誰かのなにかが私に響けば
今度は私の音になる。
気に入ればもう、それは私のもの。
だから両足でしっかり立ってないとね。
よろけたいときはよろけるの。
全部だよ。
そういうこと。
サポート設定出来てるのかしら?出来ていたとして、サポートしてもらえたら、明日も生きていけると思います。その明日に何かをつくりたいなぁ。