当たり前のこと、当たり前のように忘れてる人に、丁寧に大切そうに説く人ってのが、善い人でも、もにゃもにゃする時
苦手だ。
それは救いなのか?
優しく包んであげたら、優しいなんて、そんなの嘘だよ。
その後、視界が開けるならいいと思うけれど、たいてい今度は、その布に囚われてるじゃないか。
しかし、その事は教えてあげないんでしょう?
あ…だからもにゃもにゃするのか。
そもそもストンッと落ちることの少ない私が異端なのか。
だって『そうか』のあとは『あぁ、それで』みたいな自分の世界へのお持ち帰り。
その人から切り離したものは、もう、私のものだもの。
私が、それを聞いて、そう思った。
もう、それは、教えてくれた誰かの心じゃなくて、私の心そのものだもの。
いや、他の人もそうなのかな。
それでいて、さらに、その誰かを思い続けると言うことかな?私はすぐ切り離しちゃうだけかな?
継続って苦手だからかなぁ…。
私は単発。
だから継続の感覚が違和感なだけかなぁ?
でもさ。
悪いことからは必死に抜け出そうとするけれど、
善いことからは抜け出そうとはしないでしょう?
その、善いことは、常に更新されていて、善かったことが善くない事になるなんて、けっこうある。
大きな世界単位でもあるし、個々人の単位でもある。
その時…柔らか布で目隠しされて、外を悪だと思ってると、せっかく開けたものも否定しまうようになる気がして、
優しい布を教え説く人は、忘れているということが、どういうことかを、忘れているんじゃないか?と思うことがたまにあって、その、たまにの人にもにゃもにゃする。
善いも悪いも、その時の、その心でしかない。
なんとも不安定なもの。不確定なもの。
……それじゃ不安だから、枠がある。物質の星らしく形におさめようとする。
形の決まっていない大いなる流れを読むものでさえ、そうなのだから…まぁ、仕方ないかな。
なんてことを朝、起きて思ったりした。
今日は曇か…
灰色は綺麗だけど
寒いー。