恋文の一生
あの日は、庭の桜が綺麗に咲いておりました。
柔らかな日当たりの、木の香りがする濡れ縁で、彼と私は言葉を交わしたの。
「桜、綺麗ですね」
「えぇ、何度めかの桜ですが綺麗だわ」
「いいえ、貴女の事です」
「あら…まぁ、うふふ」
私は幾度か漉き返された桜柄の和紙。
彼は、お嬢さんが一等気に入っていた細筆で、これまで出会った誰より美しい方。
古紙と手入れの行き届いた筆。
身分違いで、ほんのひとときだったけれど、胸高鳴る出逢い。
彼の優しい感触でお嬢さんが私に書いたのは、まるで私の胸の高鳴りが聴こえているのかと思うような恋文でした。
嬉しかった。
私の最後の役目が、お嬢さんの春の芽吹きのように優しい恋心を届ける文な事。
でもそれは彼との別れでもありました。
紙は、人の手を渡り歩く物。
どんなに心通っても、私と彼はあの一度きり。
あれからどれだけ月日がたったのでしょうね。
お嬢さんは文を書き上げて、愛おしい人に私を託して…旦那様は何度も読んでくださったわ…。
そうして、年月が過ぎ、私だけが、ずっと、ひとりきり生き延びている。
うす暗い蔵の中で、桐の箱から転げ出ていた和紙はそんな思い出話を紙魚に話した。
彼女は、読み手も無くかれこれ五十年は口を閉ざして桐の箱の中にいたのだった。
私ね、最近夢を見たの。
そこには彼や、お嬢さんと旦那様もいて、私達仲良く…ふふふっ。
聴いてくださって有難う。もう疲れてしまった。最期に話せてよかったわ。
和紙は静かにそう言った。
食事の為に銀色の躰を動かした紙魚に、話を聴いてやる義理はなかったのだが何故だか遮る気にならなかった。
すっかり黙った和紙を口に含むと、優しい春のような味が薄ぼんやりとした。
ふいに蔵の扉が開かれ、人間が入ってきた。
どうやら、久しぶりの掃除のようだ。
タイミングがいいのか、悪いのか。
紙魚は、持ち前の素早さで棚の隅に躰を隠した。
「へぇ。すげぇ…曾爺ちゃんの蔵、江戸時代みたい」
若い彼はキョロキョロと薄暗い蔵を見渡した。
そして、桐の箱から転げ落ちていた紙束を見つけ手にとり開いた。
「どうだ?なんかあったかい」
「爺ちゃん!これ、箱から出てた!」
「これ、なに?知ってる?」
孫にそう聞かれ、紙を受け取った老人はコレが恋文であること、その人は早くに亡くなったんだと自分の父親に聞いたことがあることを話した。
優しく紙を撫で、愛おしそうに話していた父の姿を思い出す。
和紙に目を落とすと、どうやら紙魚に食べられたようで少し穴が開いていた。
『長い間、ひとりにしてすまなかったね』
そっと心で文にそう声をかけ
「これは火にくべて供養しようか。曾爺ちゃん、持っていくの忘れたようだから」
と孫に声をかけた。
紙魚はそっとその様子を蔵の格子窓から見た。
しばらくして空に煙が登った。
柄にもなく和紙が愛おしく想った筆や、人間達と会えればいいと思った。
こうして、長い長い恋文の一生はあの春のような暖かな日差しの中、幕を閉じた。
《1198文字》
なんとかかんとか1200文字に納める事ができました。
今回も参加できて良かった!!
有難うございます!!
あとは一生懸命読み手に回ります!!
1200文字、多くは語れません。
どれだけ伝わるかはわかりません。
それでも、この物語に目を通してくださったあなたに何かしら残せたら嬉しいです。
読んでくださって有難うございました。