土地の文化を誰が表現するかについて/スケッチオブミャークのことから
"スケッチオブミャーク"を改めて観る。
久保田真琴さんが出会った宮古島の神事を唄、音楽を中心に紹介するドキュメンタリー。(監督: 大西 功一)
昨年、宮古島と沖縄本島を久しぶりに訪れて、近いうちに今度はいろんな離島にもまた行きたいなと考えていたので、南方の作品がよく目に止まるのだと思う。
本来は神人しか入れない御嶽で行われる神事を取材しそれらを記録することには意義があると思うし、岡本太郎の"忘れられた日本"も東松照明の沖縄に関する写真集も興味深くよく読んできたので、自分では体験できない物事をこうしてスクリーン越しであっても観られることは個人的にとても有難い。
観ているうちに、この作品について賛否両論あったことを思い出した。そんな論争はネット上にたくさん残っているので敢えて書かないが、少し気になって調べているうちにある方のブログに行き着いた。ライターの宮国優子さん(宮古島出身)
https://miyako3892.ti-da.net/e5933050.html
そこにある言葉が生々しく、なにもこれは宮古島に限ったことではないと思うので、書き記しておく。
「宮古の人以外は宮古を表現してはいけないのか」「島にあるものをどう保存し、島の人がどうアピールしていくか、もしくは秘していくか」
…これ。
わたしたちは、自分の土地にあるものの価値に気づきにくい。当たり前にそこにあるから。
だけれどそれが外部の人たちによって発掘され価値があるものとして世間へ知らしめられるとき、なんとも言えない違和感を感じることになる。
わたしたちはそれを大切にしてきたから黙っていたのだ、外側からやってきた人間に根本的に理解できるはずがない、というような。
文化の継承、存続をその土地の人ができるならもちろん素晴らしいけれど、それだけではいつか本当になくなってしまうかもしれないことはたくさんあると思う。賛否両論ありながらもこうして記録すること、こんな素晴らしい文化があるんだよと知らない人に知ってもらえること、は大事。
現代において隔離された文化はもう成り立たないから、正しい価値を理解できる人が保存していく、それでいいのではないかと(外側の)わたしは無責任に思ってしまう。
もちろんこの"スケッチオブミャーク"では本来神様の前で唄う唄をステージで歌わせている、そこには違和感を感じるけれど。
阿波踊りだってそう、古代には精霊踊りだったはずで、整備された桟敷やステージで観るものは全く別ものになってしまっているのだから同じだね。
何度観ても、感動するシーンと違和感を感じるところが同居する映画。興味があればぜひ。
http://sketchesofmyahk.com/index.html