『透明』315-5123
僕が送った名前も住所も書かれていない手紙は
届く場所を探し彷徨ったあげく
溜息と共にこの小さな郵便受けに帰ってくると
そう思っていた。
なのに
手に握りしめられた僕宛のこの手紙は
何故、僕の元に届けられたのだろうか。
『透明』
窓際に腰かけて、僕宛の手紙をじっと見つめる。送り主欄には「芥田しづこ」と書かれていた。住所は書かれてはおらず、見覚えのある郵便番号だけが名前の下に小さく浮かぶ。陽に翳してみると、薄い便箋が二枚少しづれて折られていた。
先週僕は、一年前に僕の手を離した女性に最後の恋文を綴った。ふわりと鼻をくすぐった彼女の香りは、もうこの部屋にはどこにも見つからないというのに。最後に彼女が見せた悲し気な顔がどうしても頭から離れずに、こうして月日だけが過ぎてしまっていた。今、彼女がどこでどうしているのかも分からない。ただ、「待っていてくれ」という数年前の僕の期限無き問いかけに、優しく笑い返してくれた彼女に、最後に一度、謝りたかっただけだった。何日もかけて書き上げた手紙に封をして、送り主として僕の住所を書き込むと手が止まった。
ーー宛先
僕は少し考えた後、郵便記号を書き込み、そして数字を並べた。
【315-5123】
宛先人の名も、住所も無い、僕のありったけの届けたいという想いだったのだと思う。悪戯に並べられただけの数字に、苦い笑みがこぼれ落ちた。
語呂合わせで書き込んだ郵便番号だけの届くはずの無い手紙。なのに今返事として僕の元に一通の手紙が届いたのだ。送り主である「芥田しづこ」さんに届いたことは理解が出来た。でも、どうやってこの人の元へ届いたのかはサッパリ分からない。帰ってきた手紙に書かれているのも郵便番号だけで、じっと手紙を眺めていても謎だらけだった。
僕は思い切って、手紙の封を切り、桃色の便箋を取り出した。
上から下へと流れるように書かれた文字は、少しばかり尾を引いた、達筆と呼ぶに相応しいものだった。
僕はとても不思議な感覚に陥っていた。読み終えた時には、抱いていた疑問さえも何処かへ消えていたくらいに。どこの誰かも知らない人からの手紙は、確かに僕に宛てて書かれたもので、僕が送った言葉に添うように共鳴していた。僕が手紙を送ったことで、一年前に別れた彼女に許しをもらえた訳ではない。けれど、手紙が届いたことで彼女を……悠を振り切れない僕が今、見知らぬ人からの言葉に何かを掴めそうな気がしていた。
待っていてくれという言葉に詰め込んだ想いは、悠の笑顔を目にした瞬間、伝わったと思い込んでいた。無責任になりたくない、そんな恰好つけた言い訳もできない程に、僕には期限をつける自信も、それ以上の約束をする度胸もなかっただけだ。怖かったんだと思う。僕の元を離れて行ってもしょうがないと、背を向けた彼女が小さくなっていくのをじっと見ていただけだった。でも、こうして彼女のいない部屋で思い浮かべるのは、いつだって彼女の優しい笑顔なのだ。彼女と同じように「待っていた人」が今、僕の言葉に触れてくれ、僕に何かを教えてくれていた。
ーー 芥田しづこさん
僕は暗くなってゆく空に背を向け、何度も何度も芥田さんからの手紙を読み返した。
二度と書くとは思わなかった最後だったはずの恋文。
僕は二通目の「最後の恋文」を郵便ポストへと入れた。
宛先は、「芥田しづこ様 〒315-5123」
そして、その二週間後。達筆な字で書かれた僕の名前が浮かぶ小さな便箋が、僕の郵便受けに届けられた。
「おやすみ」
一日の終わりは、いつになっても何の変化もなく淡々と夜の闇に消えて行った。待たせるだけの日々の中で、不安に顔を曇らせる悠を見て見ぬふりをしていた。僕を振り返る時の繕った笑顔が本物だと、その陰にある彼女の辛さに手を伸ばすことさえしなかった。僕には「定かではない真実」が何となく分かる様な気がした。彼女が離れてしまっても「しょうがない」と思っていたのは、芥田しづこさんの言う「仕様もない理由」とは違うものであると、この時初めて気づかされた。そして芥田しづこさんは、僕の理由は既に僕の中にあると言った。決して答えへの道筋は引いてくれないでいるは、僕自身が気づかなければ、糧に出来るだけのものではないという証拠なのだろうか。
ぴたりと問いの答えが書かれている訳ではないのに、何故か同じ本のページを遠く離れた場所で捲っているような気分だった。「芥田しづこ」さんはどんな人なのだろうか。彼女の背後にある物語を読み解いてみたくなると同時に、触らないでいたいという矛盾が沸き起こる。調べれば、この郵便番号がどこのものなのかが分かるだろうし、名前を検索すれば、何かしらの情報が得られるかもしれない。でも僕は、「芥田しづこ」さんの言葉達を、今のままそっと僕の中に取り込んでいたかった。
ーー海の、色か。。。
数年前に悠と訪れた砂浜。あの時の海の色は、彼女には何色に映っていたのだろうか。目を閉じると、あの日の海の色が今もなお、僕の脳裏に鮮やかな青色を放ちながら残っている。
その後も僕は最後の恋文を送り続け、それに対する返事が僕の郵便受けに毎回届いた。分かったことと言えば、「芥田しづこ」さんが、海沿いに住んでいることや、遠い水平線から顔を出す朝日を毎朝見守っていること。浜辺を散歩しながら、砂の中に小さな命を見つけることが好きだということだけだ。彼女の人生の物語には、どうにも辿り着けないものばかりだったが、「芥田しづこ」さんは、いつも僕の言葉の裏にあるものを掬い、そしてそっと教えを乗せて返してくれた。
なんとなく分かることは、「芥田しづこ」さんが、僕よりずっと年上という事だ。これはまさに彼女の言う「定かではない真実」なのだと思う。僕の中で「芥田しづこ」さんを捉えた動かせない思想や想い。手紙に綴られた言葉達に、届け方。「芥田しづこ」さんが長年重ねてきた数々の経験が、手紙いっぱいに散りばめられていた。彼女は、僕のことをいつまで経っても「貴方様」と記していた。それは謙ったものではなく、自然と零れた言葉のように受け取れ、会ったことの無い見知らぬ女性の中に、優しい声を聞く。恋心に近い暖かさを感じると共に、恋ではない事はハッキリと分かっていた。反対側に身を置く共鳴できる相手とでも言えばよいのだろうか。もしくは、僕の内側にそっと手を差し伸べてくれる人。こうして「芥田しづこ」さんを思い浮かべる度に、別れた彼女の笑顔が浮かび、「芥田しづこ」さんの心を手紙に垣間見る度に、別れた彼女の痛みを知った。そして手紙を受け取る度に、今も悠を想う自分の気持ちに気づかざるを得なかった。
十三通目の「最後の恋文」。
僕は心の底からのお礼を、僕が探し出した「仕様もない理由」と共に「芥田しづこ」さんに綴った。
手紙を送ったその足で、僕は僕が一年前に手離してしまった「しょうがない」を「仕様もない程の愛」で取り戻すために、悠の働いていた場所へと向かった。僕がしょうがないと認めなければならなかったのは離れることではなく、痛いくらいに溢れ出す彼女への自分の気持ちだった。しょうがないで割り切れる気持ちではなかったのに、恐怖に不安、自信の無さだけを自分自身で認めてしまった。「芥田しづこ」さんの言葉が、待つ側であった悠に折り重なり全てを見せてくれたことで、抑えられない好きと言う気持ちをやっと自分で認めることが出来た。どうしようもなく好きだからこそ、しょうがないと割り切って愛し続けようと。「仕様もない理由」は他の何でもない「相手を愛する自分」のことなのだと。
僕の彼女への想いを「芥田しづこ」さんは最初から気付いていたのかもしれない。
僕の小さな郵便受けに、見慣れた桜色の手紙が届いたのは、
それから一カ月半が過ぎた頃だった。
【 芥田道子 〒315-5123 】
僕を心配そうに見つめる悠と共に次の日降り立ったのは、改札もない小さな無人駅だった。
「芥田道子」さんの手紙を読み終えた僕は、薬指に指環がはめられた悠の手を掴み、朝一で電車に乗り込んだ。電車に揺られている間、流れていく景色に、愛おしささえも感じる「芥田しづこ」さんの達筆な文字が浮かび上がっては消えて行き、その間耳にしたことも、景色の色さえも何も覚えてはいない。僕の世界が透明になっていた中で唯一感じられたのは、隣で僕の手を握る悠の体温だった。
「誰かに……住所、聞いてみる?」
小さな声が後ろから響き、僕は辺りを見回した。二両編成の電車が走り去ったホームで、この時初めて目の前に広がった海を見た。
「あっ……海」
僕はそこが「芥田しづこ」さんの海だとすぐにわかった。波折りが重ね重ね寄せる浜辺。白と灰色のカモメが混ざり飛ぶ群れ。波引き時に鳥の鳴き声のような音を立てる砂。手紙通りの海だった。
ーー 「芥田しづこ」さんはここに居る
僕はポケットからそっとガラス玉を取り出した。どこにでもある透明なビー玉。でも、僕に信じるべきものを掴ませてくれた人の世界が、この小さなビー玉の中に詰まっている。
「しづこさんは、ずっと待ってたのね」
横を見ると、遠く海を見つめる悠が微笑んでいた。
「私、わかるんだ。。。周りが前に進んで行って、自分も進まなきゃって思うのに、それでも置き去りにできないものがあって。それを背負っていこうって。それでも歩む中で、“持つよ”って、微笑んで追いかけてくれる唯一の人を待っている。自分の背負っている想いを届けたい人を待っているって」
照れくさそうに笑う彼女もまた、大きな愛で僕を待っていてくれた。この一年半、僕への想いを背負い前に進みながらも、ずっと待っていてくれたのだ。悠は僕の手のひらからビー玉をとり、海にかざして片目を瞑った。
「海が……空」
そう言って僕の手にビー玉を握らせた。
「祥くんも、見てごらん」
しづこさんの海に向かってかざす。片目を瞑れない僕は、右目の視点をゆっくりとビー玉に合わせてゆく。
ビー玉を通した世界は全てが反転していた。それでも海も空も青く染まり、空に浮かぶ海に微塵も違和感を感じられない。白波がまるで移りゆく雲のように流れては消える。両目で見える二つの世界は、どちらが本物かも分からない程に、それでもどちらも現実として目の前に広がっていた。
「定かではない真実」がここにもあった。
「芥田しづこ」さんの「定かではない真実」は多分、愛する人の行方だったに違いなかった。それでも彼を愛する自分の想いだけを糧に笑い続けてきたのだろう。唯一しづこさんの本心を写したのは、透明を見たこのビー玉の世界だったのかもしれなかった。
「ねぇ。初めての手紙に、なんて書いたの?」
僕は、音を立てる砂に耳を澄ませる。
「あれは、しづこさんへ届いた手紙だから、内緒」
”しづこさん。
今、貴女の瞳に映る海は
何色ですか?”
海を眺める僕らの後ろで、潮風に一枚の張り紙が揺れた。
顔も、声も知らない
一度も会ったことの無い
僕の大切な人。
芥田しづこさんの
最後の恋色は
これからもずっと海と共に漂い続けてくれるだろう。
おわり