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私の枠を広げてくれるもの
無意識に囚われていたり、凝り固まっている自分の思考に気づかされることが度々あります。例えば、最近我が家の子どもとのやりとりではっとしたことがありました。
「ママ、トランプで遊ぼう」とお誘いを受けたので、我が家の双子と3人でトランプをすることに。
なのですが、トランプがすべて揃っていなくて、私はほぼ反射的に「枚数が揃っていないなら、トランプはできないよ」「別なことをして遊ぼうよ」と子どもたちに言いました。
一方、子どもたちは…
「足りないなら、自分で紙に書いて作ればいいよ!」
そして、楽しそうに画用紙をチョキチョキしてハートの5をあっという間に作って見せてくれたのです。
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これを見て、自分が当たり前のように「足りなければトランプはできない」という一択だったことに違和感を持ったんですね。その考え方も事実ではあるし間違っているわけではないけれど、「あまりに当たり前に無意識にそう思ったこと」にはっとした感覚がありました。
思考はこれまでの経験や味わった感情などから作られていくことが多いと
思うのですが、何かに触れた時にはっと感じたことがあったのなら、今の自分の思考に「本当にそうなの?」と聞いてみることにしています。
すると、自分の心がいつのまにか、知らず知らずのうちに凝り固まっていたんだなあと実感することがあります。もっと自由に考えても良かったんだなと。
そして、こうして誰かの視点がぐいっと自分の枠を広げてくれるこの瞬間がとても好きだなとも感じます。このはっとできる心を持ち続けて、新しい思考を自分なりに心にインストールしていく。そんな柔軟性を大切にしていきたいなあと感じた出来事でした。
そのうちトランプで遊ぶことをすっかり忘れてトランプ作りに夢中になっていた双子たち。その姿を見て、途中で他に楽しいことが見つかったら時々そちらに流れてみるのもいいなあと思ったのでした。そういえば、最近、タスクがとても多くて「流れてみる」という時間の使い方をしていない自分に気づきました。
私は多分、子どもたちがちょっと羨ましい。
いつも私は怒ってばかりいる気がするけれど、新たな視点を授けてくれる小さな先生たちを秘かに尊敬しているのでした。
日々何かに追われているけれど「そういうものだ」と疑いもせず当たり前になっている時。そんな時は、心が動くことに出会ったとしても素直に自分の気持ちを受けとれなくて、自分の本当の心とどんどん離れていってしまうことがあります。
だから、こうして誰かの視点に触れた時にはっとできる自分でいたいと思うのでした。
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