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「分解の哲学」読書会と「暇倫」 付録「傷と運命」

「分解の哲学」1章、みんなで読みました。
九相図からはじまるこの章は、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートとその「帝国」が出てきた途端に難解になる。
「新品」のテーマはわかる。古びた感じやアンティーク感までも含めての商品化というところもわかる。ところが、「彼らの考える腐敗が表面的だ」というところで、「帝国」も「マルチチュード」にも初対面の私には何が何やら…。
1の後半と、2「土壌から考える」3「〈帝国〉を描く」が、関門だったのだなぁと、読書会だからと無理やり読んで、わかった。何回か読み始めては、挫折したのはここだったんだ、とはっきりした。
そして4「腐敗を考える」に来て、やっと、「うん、なんとなくわかる」と思いながら進むことができる。ネグリとハートを通り抜けられれば、あとはなんとかなる。やれやれ。

それで、1の後半部分ぐらいからわけわからないネグリやハートの部分を読んでいると「暇倫」が読みたくなる。どうつながるのか、はっきりとはわからないのだけれども、暇倫を読んで「そうよ、そうよ、そうなのよ」と思いたくなるのかな。そんでもって、読み始めたわけなのだけれど、付録部分まで到達したのは実は今回が初めてだった。なんとなく危ない感じがして、手をつけてなかったと言ってもいいかもしれない。

目的やゴールなんて、先に設定できないのだ。目的を持った読書なんてできないのだ。うっかり、うわぁ! というものに出会ってしまい、あれよあれよと渦の中にぐるぐる、巻き込まれるようにはまってしまうのだ。さすがに還暦を過ぎると「むむ、ここいらに渦がありそうな…」という予想は当たりやすくなる。でも、渦の大きさや巻きの強さは、なかなかわからず。ときに足をすくわれて「あわわわわ」となる。

そんでもって、「暇倫」の付録がすごかった。踊りたくなるほどすごかった。「この世界はサリエンシーだらけだ」「我々は、習慣によってサリエンシーから身を守りつつ生きている」。

まさに。ここが始まりなのだよなぁ、と。ああ、だから新品でとっかかりがなくて、ツルツルで生きてるってのは、あり得ないということになり、そこで「腐敗の哲学」と「暇倫」はつながるんだな、と腑に落ちる。芽が出るときにタネは割れるのだとジョアンナが書いているのともつながるよな、と。

まぁ、そういうわけで、國分氏はきっとグリーフについても、語れる方だと直感がアラートを出しはじめて、やっぱり、もういちど吐きそうになる程、渦に巻き込まれたり、踊りたくなったり、ああ、大変。

「グリーフ・サポート」をテーマにお話をしてもらえないかなぁと宙に放って、中動態的に何かがやってきて私にとどまるのをドキドキしながら待つのみなのである。


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