高齢者だってバズりたい〜うわさのこわさ〜
お久しぶりの朝木です。
最近運動不足がたたっていましたから筋トレを始めました。
学生時代、テニスで汗を流していたときに似た、体を動かす楽しさを思い出しつつあります。
今回は私の祖母に起きたご近所トラブルのお話です。
内容としてはちょっとしたことですが、祖母にとっては大きな不安が残る出来事となりました。
まず祖母が住むのはとある地方都市から少し離れた住宅街。
車がすれ違えないような道の両脇には素朴な庭付き一軒家が並ぶ、比較的高齢化の進んだ地域です。
祖母は私とは違いアクティブなので近所のお裁縫教室に通ったり、自治体の催すトレッキングなどにも積極的に参加しています。
ちょぴり強引ではありますが明るく、人の輪を広げるのが上手な方だと思います。
そんな祖母が平日の夜8時ごろ、父に電話をかけてきました。
「蜂の巣ができたからやっつけてほしい」
不思議に思いつつ父は向かい、1時間半ほどで帰ってきました。
ひと仕事を終えた父から聞いた話によると以下のような流れのようです。
『少し前に今回のものとは違う蜂の巣が目立つところにできた。
それに気づいたお向かいのおばさんが、この家の前を通るときには気をつけた方がいいと周囲に話す。
話が瞬く間に近所に広がり、遠巻きにされた。
その蜂の巣は翌日祖母のお友だちによって駆除されたが、不安感は残り、新たにできた蜂の巣を話が広まる前に取り除きたかった』
この話を聞いたとき、私は大変衝撃を受けました。
確かに祖母の住む場所はこの手の世間話、もとい噂話が広がりやすい環境ではあります。
コミュニティを構成する人間のほとんどがリタイアして時間のあるお年寄りですから、話のタネというのは、自分や家族の栄光かご近所さんの近況くらいなものでしょう。
それ以上に驚いたのは「蜂の巣ができたこと」を話のタネに選んだことです。
あまりにしょーもない。
しょーもないのに、明確に、蜂の巣の存在した短期間ではありますが差別を生んでいる。
こんなことが日々起きているかもしれないと想像するだけで疲れてしまいます。
が、私たちにとっても無関係ではないように感じましたので、ここで考察することにします。
まず前提として、家に蜂の巣ができたことは祖母のせいではありません。
(過去にも何度か蜂の巣ができているので原因はあるかもしれませんが、都度1週間以内に駆除をしています)
もちろんお向かいさんにも人を傷つけようという悪意はありません。
むしろ彼女自身は善意であると思っているはずです。
ですから祖母の家に蜂の巣があることを周囲に注意喚起として言い流したのでしょう。
しかし噂話という文脈における「気をつける」とはなんでしょう。
そう。祖母の家に近づかないことです。
お向かいさんもそれをいくらか想定して話をしているはずですし、実際そうなりました。
祖母の家にできた蜂の巣は比較的おとなしいアシナガバチのもので、サイズも小学生のこぶし程度。
怖いかもしれませんが、よほど刺激をしなければ問題ありません。
田舎というのは虫が多いですし、お向かいさんは畑が趣味ですからその程度のことを知らないとは考えにくい。
ではどうしてお向かいさんはあのような言動をとったのでしょう?
「噂話は彼女たちにとってのSNSだから」ではないでしょうか。
「誰かに見てもらいたい」
「一度でいいからバズってみたい」
私たちが漠然と抱える承認欲求と同質のものを、噂話として発信し、コミュニティに影響を与えることで満たしているのではないか。
そう思えてならないのです。
だから、わざとちょっと刺激的に、興味を引くように話をしたのではないでしょうか。
もちろん彼女としては「気をつけて通ってね」の意も含んだつもりでしょうが、噂話を楽しむ人はちょっとずつ大げさに捉える傾向がありますから、先に書いたように「祖母の家に近づかない」の解釈で広がります。
ちょっとの大げさ。インターネットの世界でよく見かけますね。
(ちょっとどころじゃないものも多いですが)
私たちは大なり小なり、社会になにか影響を与えたいのです。
自分の言動によって返ってきたものの大きさで、自分の価値を感じようとしてしまうのです。
特に高齢者ともなれば仕事をやめていることも多く社会に与えられる影響は少なくなるでしょう。
身体的にできることも減ってしまうでしょう。
そうなったとき、自分自身の価値を見出すことは難しいのかもしれません。
そんな人々がひとりでないことを感じ、価値を確認できる行為こそ噂話であり、私たちにとってのSNSだと思います。
この記事を書きながら、改めて自分の欲望との向き合い方について考えなければと感じました。
できるだけフラットに書いたつもりですが、やっぱり祖母を思う故、お向かいさんを敵視する心がありますから、綺麗にまとまっているとは言えないかと思います。
生きていれば無意識的に人を傷つけることもあるでしょう。
仕方がないことだと自分の弱さを受け止めながらも、真摯な生き方をそれ以上に模索していきたいと強く感じた一件でした。