夫が初めてネイルを塗った日
夫が「ネイルを塗りたい」と言い出したのは、年明けだっただろうか。
先にお伝えしておくと、夫は特別おしゃれというわけではない。
自分の服は自分で吟味して買う人だが、買い物の頻度はさほど高くない。1シーズンに3着買うか買わないか。その選りすぐりを何年も着る。ちなみに本人の見た目は、くまのプーさんをほんの少しだけ縦に引き伸ばした感じだ。
ただ、夫は昔からおしゃれや美容に関して「よい目」をもっていた。
たとえば、私たちの女友だちがボルドーやモスグリーンなど上品なカラーのネイルをしていると、目を細めながら「爪がおしゃれだねぇ」と口にする。その言い方がすごくさりげなくて、嫌らしさや偉そうな感じがまったくない。
「Tちゃん(夫のこと)は本当によく見てくれてるよね〜」
「え、だってほんとに超おしゃれなんだもん。そういうネイルが似合っていいなぁ〜」
まるで、いつもメイクやネイルの話で盛り上がっている女子グループのような雰囲気を醸している。
こんな風にもともと「女性らしい」感性をもつ夫だが、「俺ネイルしてみたいから、今度一緒に買いに行かない?」と言い出したときはさすがに驚いた。お恥ずかしい話だけど、私なんて37年間の人生で一度もネイルをしたことがないのに。夫のほうがよほど美意識が高い。
塗りたい理由を聞いてみると、女友だちに感化されたのに加え、エル・デスペラードという大好きなプロレスラーも黒のネイルをしていてカッコいいと思ったからだそう。推しが人を行動させる力って本当にすごい。
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話は飛ぶが、私がネイルをしてこなかったのは親の影響が大きい。
高校生の頃に「塗ってもいい?」と親に聞いたら「爪が呼吸できなくなるからやめなさい」と止められ、恐ろしくなり諦めた。親の言葉の呪縛力はなかなか強く、大人になってからも警告を破ってまで塗りたい気持ちが湧かなかった。この年になれば、さすがに親も何も言わないだろうに。
(同じような理由で、メイクもほとんどやらずにここまできてしまい、ほぼすっぴんである)
しかし夫と同様、ネイルに対する憧れは少なからず残っていたのだろう。
昨年の初夏、お湯で落とせる「ANDIZUMO(アンディズモ)」というネイルをInstagramでたまたま見かけた。主成分は水。溶剤は使用していないので、ネイル特有のツンとした匂いもないそうだ。
「あ、これなら私も塗れるかも」
当時、自分の心がふわっと浮き立ったのを覚えている。
カラーのラインナップも落ち着いていておしゃれ。出雲近郊の素材を使い、安全安心に配慮して製造するというエシカルなコンセプトも素敵。
いつか実物を見に行こう、そう心の片隅に置いておいたのだ。
だから、夫からネイルを塗りたいと聞いたとき、すぐにANDIZUMOが思い浮かんだ。
さすがにネイルしたままでは会社に行けないそうだが、お湯で落とせる水性ネイルなら休日だけ楽しむのにぴったり!それに、夫のファッションに合いそうなブルー系のカラーも多そう!(あわよくば私も使わせてもらおう……!)
夫にANDIZUMOのことを話すと、「いいね!!今度見に行きたい!!」とたいそう乗り気。
そしてついに先日、二人でANDIZUMOを見に行ってきたのだ。
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阪神百貨店梅田本店のオーガニックコスメを取り扱うショップの一角に、ANDIZUMOはあった。
夫は見るなり「おおお」と喜び、カラーチャートをじゃらじゃらと見比べはじめた。私は「楽しそうで何よりだなぁ」と思いながら、「この色もいいじゃん!」「これも渋くてカッコいい!」などと茶々を入れる。
すると、私たちに気づいた若い店員さんが話しかけてくれたのだ。
「そちらの商品は水性ネイルなんですよ」
私は内心「あ、来ちゃった」と思った。
私のほうに話しかけてるし、この店員さんは私が使うと思ってるみたい。夫用だと知ったら変な顔で見られるかも。そうしたら夫が傷つくかも。どうしよう。
でもここで私が自分用に買うかのようにごまかしたら、もっと夫を傷つける気がした。それだけはしてはいけない気がした。
すると、そんな私の様子を夫は知ってか知らぬか、カラーチャートを自分の爪に当てながら、「ブルー系で探していて……」とごく自然に切り出したのだ。
店員さんは「あれ?」と思ったのか一瞬間を空けたけれど、察してくれたようだ。ブルー系をピックアップして、夫に向けて色の説明を始めてくれた。
夫が真剣に選ぶ姿に私も勇気をもらい、「この色きっと似合うよ」などと夫にすすめる。
「決めた。この二つにします!」
夫は「薄空」と「波」と名付けられた二色を選んだ。堂々と、嬉しそうに。
夫(と私)の人生初ネイルは、少し早めのバレンタインということで私からプレゼントした。
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「うんわっ、むっず!」
ネイルを買った一週間後の休日の朝、洗面所で顔を洗っていると、夫の叫び声がリビングから聞こえてきた。
なになになに、どうした?!と飛んでいくと、左手の親指にネイルを塗っていたのだ。爪から少し青色がはみ出て、表面がでこぼこしている。
動画でコツを確かめながら塗ったそうだが、やはり難しかったらしい。「いやー、むっずいわ!むっずい!」と叫び続けている。でもなんだか楽しげなのだ。
「え〜、悔しいなぁ。もう一回塗り直すわ」
水性ネイルは、失敗してもすぐに再チャレンジできるのも魅力かもしれない。夫はお湯を流しながらスポンジでこすり、爪をリセットしている。
好きにしてちょうだいな、と思いながら洗濯を干していると、今度は「ねえ、見て見て見て!!」とやってきた。大騒ぎである。
夫が満面の笑みで見せてくれた左手の5本の指には、冬空と雲を泡立て器でカシャカシャと混ぜたような、ミルキーな水色がのっていた。さっきよりもずっとなめらかで、ぽってりと色づいている。
「えっ、かわいい!!めっちゃうまいじゃん!!上達はやっ!!」
「二度塗りしたわ!ハケと少し仲良くなれたわ〜」
ハケと仲良く。この人はつくづく可愛らしい人だなぁ、と私は感心する。
せっかくだから写真を撮って友だちにも送ろうと私が言うと、少し恥ずかしそうにしつつも左手を差し出してくれた。まったく、私の何百倍も可愛らしい。
グループLINEに送った写真に、女友だち二人は「おしゃれ!」「すごい似合ってるよ!」などと返してくれた。
きっと大丈夫だとは思っていたけれど、誰も「男なのにネイル?」だなんて言わない。そんな空気は微塵もない。友だちの心からの「いいね!」に、ほんの少し緊張していた私はすごくホッとした。
何より、キレイに塗れた爪を何度も見つめては「可愛いわ〜」と嬉しそうに笑う夫を見て、性別なんて関係なく、誰だって美しくなろうとしていいんだと感動した。そして、自分自身のために美しくなろうとすれば、気持ちが自然と前向きになるのだなと。
世界は確実に変わりつつある。誰もが自分らしい美しさを追求できる時代に。その時代に向かって、夫がぐんぐんと先頭を歩いている気がするのだ。
先を歩いている分、ギョッとされたり、好奇の目で見られたりすることもあるだろう。
実際、ネイルをしたままスーパーに行ったら、レジで店員さんが無音の「あっ」を発して、チラッと見てきたそうだ。
「そういう反応されて傷つかない?」と私が聞くと、「いや、全然。そんなこともあるだろうって分かってるから、傷つかない」ときっぱり答えた。
「あ〜、俺もっと美しくなりたいなぁ」
ネイルを眺めながら、こう話す夫を誇りに思う。
我が夫ながら、とても美しい人だ。