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科学芸術の反芻。
「芸術作品のオーラは、複製技術の発展によって変容する。芸術は時代と共に変わり、社会的・政治的状況に応じて新しい意味を獲得する。」
「芸術は社会に対する攻撃手段だ。」
a.社会と芸術の共鳴。
科学と芸術は共に美を保存する。
ミロス島に産み落とされたヴィーナス像は、それが幾年もの時を超えて科学により発見される。
古代美術の発掘という自己満足的な試みは近代にて始まる。都市文明が発展したと同時に、ドロドロとした欲求が古物を発見していく。ゲームを制限されてきた子どもが大人になってから強烈にゲームをプレイするように、人間は神話によって産み落とされた芸術に興じるようになったのである。
ゆえに、社会の進化が芸術体系をより豊かにし、表現の多様化が社会の需要を満たしてゆく。
近代社会が疑問を呈すると同時に、芸術がその解決を図ってきたのである。
まだ科学とアートが機能的に切り離されていなかった、と言い換えることもできる。
科学技術が埋め合わせできない空間を芸術が代替えする。時代はロマン主義を謳歌した。だが、それも長くは続かない。
たとえ芸術がそれを満たしていた時代があっても、いずれ科学が芸術を代替し始める。
近年はチャットGPTが無料で提案したアイデアを数秒で絵にするし、あとはそれを印刷すれば立派な絵画である。
Googleで検索すればそれっぽい情報が出てくるし、SNSを見ていれば時間は潰れる。もはや人類が積極的に発掘するものは、表現するものは、無くなってしまったのだろうか。
社会がアートと文節していた機能は、もはや科学の中でのみ再生される。人間が出来るのはその声を聞くことだけだ。たしかに、そう頑張ることもできる。
しかし、現代アートはその見方を否定する。
芸術の役割は社会との分業ではなく、むしろ社会を批判することだと言うのである。
技術の躍進を程なくして、社会は大量の人口を生産してきた。その人口をうまく権力勾配に適応させなければ、うまく社会はまわらない。だから、社会は人々に特定の情報を寄生させる。あるいは、道徳を作り出し、それに人類が従わなければならないとしてしまう。誠にそうする必要があった。
(ミーム学が典型である。)
だから、カントは道徳律を発見したのである。認識をコペルニクス的に転回する。コペルニクスが天動説を地動説に転回する必要があったのと同じく、カントにもその必要があったのであろう。
ニーチェとドストエフスキーが神を殺した時期に、芸術についても一度死んだはずである。ワーグナーからポップカルチャーの誕生まで。いわゆる"アート"が芸術と言われていた時代は終わり、現代アートの時代がやってくる。
現代の芸術家が乗り上げた暗礁は、社会の科学及び道徳律の発明が表現の多様化と矛盾を起こすことで生じた必然的な事態なのである。
この事態を言い換えれば、まさに社会の芸術に対する浮気である。相手は科学の体系。現代アーティストは離婚を避けるべく奮闘する獅子といったところだろうか。
かつてゲーテはこう言った。
『科学は万能ではない。なぜなら、科学が進めば進むほど、人間の心はより深いところに向かうからだ。』
科学や技術が進歩しても、人間の精神的な探求や芸術的な側面との折り合いには限界があるというゲーテの深い洞察が見える。
つまり、ゲーテすら芸術の行先を危惧し、彼の作品の中で言及していたのである。
芸術という名の批判的精神。そこに絡むのは、科学の進化と表現意識の間が孕む緊張感である。それが快楽を生み、苦痛をも産み落とす。
b.芸術行為の神学的解釈。
少し議論を別角度から見つめてみる。
なぜ神は人間を孕んだのか。
創世記によれば、アダムとイヴが知恵の実をかじったせいで、神が彼らを大地に落としたのだと言われている。
すなわち、人間が罪を犯すことがなければ、今我々が住んでいるこの世界すら存在し得なかったのではないか。このような罪の物語はユダヤ・キリスト教文明圏に限定された話ではない。
仏教では、アーラヤ識からマナ識に登ってきた自己意識-煩悩が、人間に執着や苦痛を与えているのだという。
その苦しみから逃れるために解脱するのだと。
このような多神教世界観は、一神教が前提とする"信仰の唯一神への収斂"ではなく、"信仰の多神教的な拡散"が背景にある点で、一神教世界とはやはり少しだけ違う。
だが、人間の罪への贖いを動機として信仰を調達している点では、西洋宗教も東洋宗教も際して違いはないのではないか。
このような贖罪意識こそが、人間が救いのために壮大な神話を築き上げた理由であると定式化できるのではないか。
やはりその意味では、人間は贖罪を通じて、信仰から芸術へ目覚めたのではないか?
以上を持ってここで主張したいのは、古代における宗教的神話と近代美術、そして現代アートの連続性である。
そもそも宗教と近代美術の連続性については、先駆けた議論がいくつも存在する。少し長いが古代から現代まで本論の文脈に沿って振り返ってみよう。
①古代において、神話が示した理念や道徳をわかりやすく表現する必要があった。
↓
②しかし、偶像崇拝の禁止で宗教的なモザイクを作ることが出来なかった。
↓
③そのフラストレーションがヨーロッパ人のスコラ学への傾倒を引き起こしたが、デカルトやコペルニクスの時代になり神の権威性が小さくなり始める。
↓
④それは政治の変化(権威主義→立憲主義、民主主義)を引き起こし、ルターによる宗教改革を経てプロテスタンティズム(自由主義神学)を生み出す。
↓
⑤ルネサンス時代のヒューマニズムを超えて個人主義の時代になり、その結果、偶像崇拝に対する制約感が薄れたことで近代美術の世界が花開く。
↓
⑥これまで表現できなかった倫理や道徳を言葉や絵画で昇華しながら指し示すことが可能になった。贖罪意識の表出。
↓
⑦ただ、社会に言語が蓄積するようになると、その分だけ科学についても発達する。
↓
⑧当時はまだ社会道徳が未発達で、尚且つ映像表現が優れていなかったために科学と芸術は統一していたが、現代になると二つの体系に離婚してしまった。
↓
⑨置いていかれた芸術は科学に嫉妬し批判する。その破れかぶれが現代アートである。
贖罪意識の概念を「罪」と「超越への欲求」のなかで捉えると、アートの普遍的な動機(例えば、欠如を埋めようとする欲望や自己超越の願望)として議論を再構築できるのではないか?
以上の流れで芸術の系譜をみると、要するに、社会から神が隠されて、逆にアート(≒神話)が肥大する。芸術家はそれを機能的に使うことで自分を贖罪意識から救い出そうと奮起している。
少し無理矢理だがそんな風に解釈することも出来るのではないか?
ついでに、この図式はマックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にて論じた宗教と労働観の関係のアナロジーである。
いまや現代アートの批判的側面が、プロテスタント的な原罪観の上に社会的地平を築いてしまったのだろうか?
c.社会と芸術の復縁はあるか?
以上の議論で見てきたように、諸々の芸術的行為は科学及び現行体制に対する批判である。そうなれば、芸術の領域では保守的であることが逆に進歩的なのである。
現行体制は科学に対して好意的であるはずで、そうでなければ技術革新と資本主義の保全は望めない。
なので、現代の荒波の中で科学とアートは分裂し、片方は過剰な科学信奉主義を招き、もう片方は芸術という贖罪的立場からはみ出た過剰な批判的精神を行使し、現行体制を批判するのである。
では、別れてしまった二つの理念に復縁はあり得るのだろうか?
あり得るとすれば、、、
a.アーティストがゲーミフィケーションや二次創作に舵を切る。
b.社会が芸術をどのような形であれ利用しようとする。芸術の産業利用化。
c.社会が科学によって攻撃されて、結果的に芸術が科学に反証し得る可能性が生じる。
d.科学技術の飛躍的進化。それによる感性と科学の融合。
の4パターンであろう。(ここに関してはあんまり考えがまとまっていない。)
この中でもa.b.cのパターンには科学か芸術に気質的な変化が生じる必要があるが、dにはその必要がない。
科学がこれまで通り進展する過程で、心やアートについても内包することがあるかもしれない。
最近ではテクノ・リバタリアンやalife(人工知能)についての議論。あるいは量子コンピータの計算可能性の領域では、その可能性がツブサに予測されている。
素人目にはよくわからない。
ただ、おもしろい。
ギリシャ時代に産み落とされた二つの理想が、近現代の結婚と離婚を経て、またも科学の求愛により復縁するのかもしれない。
もしそうなれば、科学者及び芸術家双方の努力は報われるのだろうか。そして、報われたとしたら、それを我々の小さな灰色の細胞で理解することは出来るのだろうか。
個人的には、未来に両者が復縁することを願うばかりである。そうなると面白いから。
「科学の最大の発見は、単なる合理性の勝利ではなく、自然の美しさや驚異を解明する芸術的な行為でもある。」